更新日:2022年7月4日

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元島民のお話

【北方領土出前講座】として、北方領土元島民「語り部」を派遣しています。
北方領土に住んでいた元島民の方が島の暮らしや思い出をお話します。

出前講座については、関連ファイルのチラシをご覧ください。

元島民のお話

元島民吉田 義久 さん(歯舞群島(水晶島)出身)
千島歯舞諸島居住者連盟富山支部(黒部市在住)

私の生まれ育ったふるさとは、根室半島ノサップ岬よりわずか7km、岬からすぐ目の前に見える水晶島という島(歯舞群島の1つ)です。島からの引揚時、私は8歳でした。島は、冬は一面雪と氷におおわれますが、春には、ピンクのハマナス、スズラン、黒ユリなどの美しい花々が島を埋め尽くし、小鳥がさえずる自然豊かな大変美しいところでした。島には2つの学校があり、1つは全校生徒が30人ぐらい、1つは60人ぐらいでした。1年から3年のクラスと4年から6年のクラス、高等科の3つのクラスに分けて勉強していました。
米などの農作物はほとんど生育せず、仕事は、コンブなどの漁業が主でした。当時、コンブは貴重な食材だったようで、今のお金にして3,000~4,000万円位の収入があったと聞いています。
島の生活は決して楽なものではありませんでした。コンブ漁の最盛期には、3時頃から船を出し、晩の10時頃まで仕事をしていました。子どもでも、学校を休んで朝早く起きて手伝いをしないといけないのです。私も子どもながらに、コンブを干す海岸の草むしりで、ハマナスのトゲや貝殻で小さな手を切って血にまみれたこともありました。冬の間は、海が氷でおおわれ漁ができないので、富山に帰って身体を養生して、春になったら島に行く人もいましたし、ずっと島で生活する人もいました。
開拓当時の生活は厳しかったようですが、大正、昭和と時間が経つにつれて島の生活も安定してきました。漁船も新しく造り替え、これから事業を軌道に乗せようとしていた矢先、戦後昭和20年9月3日、ソ連軍が突然、北方四島を占領したのです。私たちは島を追われ、小舟で根室まで引き揚げました。親達が血と汗で築いた全財産が、そしてふるさとが、たった一夜にして奪われてしまったのです。
私は、戦後56年経過した平成13年、初めてふるさとの島を訪問しました。夢にまで見た故郷の島の岸に足を着けたその時、私たち元島民全員が万感胸にこみ上げ、涙でほほを濡らしました。海岸は大きく浸食され昔の面影はありませんでした。しかし、草原の高台に上ると、そこには草原が一面に広がり、秋の草花が咲き乱れるその光景は昔と少しも変わっていませんでした。当時通っていた学校の跡地を尋ねると、校舎はありませんでしたが、校舎の基礎石が草原に残っていて、当時の思い出が走馬燈のように脳裏をかけめぐりました。私の住んでいた場所は、ロシアの国境警備隊の官舎があり、自分の住み家の跡には訪れることができず大変残念でした。私はその心情を一句に書き留めました。
雲間より見え隠れする草原を背伸びしてみる我の住家を私たち元島民は、先人の血と汗で開拓した北方四島の返還を粘り強く訴えていきたいと考えています。日本中の皆さんに、北方領土問題を正しく理解してもらい、「法と正義」に基づいて領土問題が解決されるよう心から願っています。

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