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常設展示 第2展示室

1.大伴家持が感動した立山

 日本では、平安時代のはじめ、空海(弘法大師)や最澄(伝教大師)が中国から密教なるものを招来して以降、自然観が大きく変わりました。山や川、草や木々に神が宿るといったそれまでの自然と神の一体的で素朴な自然観が、仏の世界に至る修業の場としての自然にとって変わられたのです。
 その意味で平安時代以前の人々の素朴な自然観を現代まで、そのままに伝えているものは『万葉集』をおいて他にはないでしょう。『万葉集』に収採された歌は、まさしく飾り気のない素朴な感覚がそのままに自然に対峙し自然を表現しているのです。
 こうした『万葉集』の自然観の中でも代表的なものとして「山」に対する観念があります。
 『万葉集』には、いずれも神山と崇められた、三輪山・天香具山・畝火山・二上山・吉野山・富士山・立山等々数多くの霊山が歌われています。殊に大伴家持は夏も雪と岩に鎧われている高山立山を「みれども飽かず神からならし」と詠嘆しており、雪と岩のアルプスを悪魔悪龍の住処として忌み嫌い恐れた古代のヨ−ロッパ人とは対称的なのです。

 家持は『万葉集』に詠んだ「立山賦一首並びに短歌二首」で、

  ○ ・・・皇神の うしはきいます 新川の 
             その立山に 常夏に 雪降りしきて・・・
                         (巻17、4000番)
  ○ 立山に 降りおける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし、
                         (巻17、4001番)

 とうたい、立山を神々しい霊山とみているのですが、富士山についても「霊(くすし)くもいます神かも」と詠み、山そのものが神であるとみています。
 このように、山をはじめ岩、雪そのものが神であったり、あるいは山や岩に神が宿るという考え方は、何故に生まれたものでしょうか。
 山麓に聚落を営む民が山に霊異と畏怖とをもつようになるのは、山が大切な水の源であり、燃料その他の生活資料の供給源であるからですが、同時にきわめて近寄がたい霊異をもっていたからでしょう。また天空にむかってそびえたつ山の頂は、最も天に近く、天から神が天降るに最も適しているという感覚があったからでしょう。
 かつて人形山(五箇山)、僧が岳(魚津市、黒部市)等に残る雪解けの形に農作業の時を見たのは素朴な自然観の名残だったのでしょうか。
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2.心の世界に見立てられた立山

 山は、未知と危険とに満ちた存在です。その存在が、四季の美しい装いをもって、人々に限りない魅力をなげかけます。山は日本人の生活に深く結ばれていました。山の信仰が生まれ、説話が生まれ、文学と歴史が生まれるのはそのためだったのです。殊に、立山に関しても自然と人間の共生の中で、言い換えれば、自然のこころをわれわれ人間の生きざまの中にとりこんできたのが「立山信仰」なのです。
 立山は、その山容、地獄谷などの特異な景観によって形づくられた特殊な山岳信仰の内容の故に、日本の山岳信仰の上でも注目されるべきものをもっています。
 平安時代の中ごろから立山信仰は、地獄信仰と結びつき、日本中の亡霊がここに集まるものと考えられようになりました。さらに鎌倉時代には、阿弥陀如来の山中浄土がこの山に展開しているという山中に地獄と浄土が併存する他界信仰が形づくられていったのです。
 こうした立山信仰成立の背景には、1万年前の水蒸気爆発の爆裂火口の凄惨な光景がみたてられた地獄の景観、浄土山や室堂平に夏多種多様な高山植物が咲き誇る光景がみたてられた浄土の景観があります。また、雪という職人に整形され独特の風貌をもったオオシラビソやタテヤマスギ等々、立山という三千メ-トル級の峻嶺な山岳自然とその自然を構成する動植物が大きく関与しました。
 高山植物の咲き広がる一帯や峰々は阿弥陀如来の止住する浄土として信仰登山の目標とされ、残雪のガレバに群生するハイマツの間の雷鳥は火難除の守護神にみたてられました。山を棲として山麓に跋扈するツキノワグマは立山の主にして太古の自然神の化身とされ、弥陀ガ原一帯に点在し、陽の光に鈍く輝くミヤマホタルイは餓鬼の田の呼称の因となりました。禿杉、美女杉の名で親しまれているタテヤマスギ等立山にちなむ動植物は、いずれをとってもその背景に立山の特異な景観に日本の自然観や思想を写し込んでいるのです。
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3.立山地獄と日本の地獄思想

 立山は平安時代、修験の霊場として全国に知られた霊山でしたが、一方では、地蔵と地獄の山でもありました。平安時代の中頃、立山にも地獄・浄土思想が入り込み、他の霊山に先駆けて、立山火山の爆裂火口及び周辺部の景観をして、仏教の経典にいうところの地獄とみなし、隣接する弥陀ヶ原の池塘を「餓鬼の田」と呼んでいます。
 平安時代後期に著された『本朝法華験記』や『今昔物語集』等の説話集に度々立山の地獄が登場します。また、越中国森尻(現立山町)の智妙坊が生きながら畜生になった話は、鎌倉時代に僧無住の著した「妻鏡」に採録されています。
 本来、来世の世界であり、バーチャルの世界であるはずの地獄の世界が立山山中という現実の中に顕れる。このことが、「地獄」そのものに現実の世界を与え、日本人の地獄思想の形成に大きな役割を果たしたのです。
 室町時代には、世阿弥の作と伝えられる謡曲「善知鳥(うとう)」が上演され、現在にも受け継がれています。江戸時代にはいると、地獄思想は立山曼荼羅に描かれた地獄の絵解きによって広く庶民の中に浸透していったのです。近代に入っても宮沢賢治・芥川龍之介・太宰治などの文学者の生き方に反映されています。
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4.立山と阿弥陀信仰

 山中浄土の思想は、山林斗そうを重視した天台・真言の開宗により各地に伝播していったと考えられます。
 平安貴族の格別な信仰を得た熊野山の浄土が、山中浄土の代表ですが、このころの立山山中に想定された浄土は、必ずしも阿弥陀の西方浄土ではなく、『本朝法華験記』や『今昔物語集』の越中国立山女人の話では「立山利天宮矣」とされています。しかし、鎌倉時代に入ってからは、阿弥陀の信仰が優位となったのでしょう。鎌倉時代初期に成立したとされる『伊呂波字類抄』十巻本に載せられた立山開山縁起にも阿弥陀如来を本地仏としています。
 南北朝時代に成立した安居院作の『神道集』の巻四に「抑越中国の一宮をば立山権現と申す、御本地は阿弥陀如来是なり」として、立山の本地が阿弥陀如来であると記しています。地獄の山として知られてきた立山に、この頃、新たに阿弥陀の山の性格が付与されることとなったのです。
 弥陀ヶ原・浄土山等、立山の山中地名に浄土信仰の影響をみることができます。
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5.立山曼荼羅の絵解きの魅力

 絵解きは、本来、「立山曼荼羅」のメッセージを衆徒の話法(話術)を媒介にして聴衆に伝達する行為です。
 それは、テキストである「立山曼荼羅」、絵解きする衆徒、これを聴く大衆(信徒)の三者が、いわば、一つの時空間すなわち「宇宙」を共有することにより成り立つもので、絵解きする衆徒の話法、呼吸が大きな役割を果たすことになリます。
 「立山曼荼羅」の絵柄は、画面の上方左右に日月を配し、その下に、画面左から剱岳・別山・雄山・浄土山を背景として描き、雄山や浄土山の峯付近に阿弥陀如来の来迎や飛天が舞う姿が描かれています。こうした空間を背景として絵説きの内容となる立山地獄・浄土・開山縁起・立山登拝路・布橋灌頂会(芦峅寺系のみ)が描き込まれています。こうした曼荼羅の図柄は、単に想像や空想の世界を描いたものではなく、絵柄の対象となっている高山植物の咲き乱れる景観は浄土に見立てられ、異臭が充満する景観は地獄に見立てられ、現実と仮構の世界があいまって不可思議な精神世界を現出しています。
 「立山曼荼羅」の絵解きの口上は、主として口伝あるいは江戸時代に作られた各種の「立山縁起」(「和漢三才図絵」・「立山峰宮和光大権現縁起」・「立山略縁起」・「立山小縁起」・「立山縁起」などがある)に依拠したと考えられます。
 立山町岩峅寺の旧宿坊延命院に伝存する「立山手引き草」によると、先ず導入として、「この四幅一面の大画は、(略)、我らが心の善悪をそのまま見る目にあらはせり。心に心を問ふならば、などか此に替はるべし。」と口上する。立山曼荼羅を絵解きするこの「場」が「そのまま禅定」の「場」なのです。

 絵解きの始まりは、「そもそも立山の濫觴は」ではじまり、その冒頭に、「時」は、大宝元年、2月16日、主人公は越中の国司佐伯有若の嫡男佐伯有頼、御歳16歳、父有若の寵愛している「白鷹」を逃がし、その鷹を追いかけるところから話しはスタートします。設定された「大宝元年」は、立山の開山の史実(9世紀末から10世紀初めとする)とは異なるが、「縁起」という伝承の性格からしてやむを得ないでしょう。
 縁起成立の経緯をみると、最初に創られた縁起の骨子(『類聚既験抄』収載)は13世紀頃(鎌倉時代)、縁起が完成する江戸時代初期(『和漢三才図絵』収載)は17世紀前期で、なんと「立山開山縁起」は完成までに300年余りの年月を要しているのです。従ってそれまでの様々な歴史的事象を伝承の形でとけ込ましています。

 絵解きのハイライトは何と言っても地獄の場面です。立山曼荼羅の画面では左上四分の一を超えるスペースが割かれ、針の山に見立てられる剱岳、帝釈天の止住する別山を背景に地獄の景観を炎を下敷きに、熱八大地獄に堕ちた罪人の苦しみ様を、様々に描いています。衆徒はここぞとばかり地獄の責めを絵柄と話術で絵解きし視聴者を恐怖の世界に誘引したのでしょう。

 「苦しみに耐えかねた罪人は、鬼に恨みて言ふは、願はくは、しばし、助け給へ。何ぞ哀れむ心なきや。と言えば、鬼ども言ふには、かかる報ひを受くるは、自業自得の罪なり。衆生、皆、かくが如く愚かなる心あり。阿坊羅刹、鬼の嘆きなきにあらず。己が昔作りし罪が、今己を責めるほどに、鬼を恨むなと。」
  心に突き刺ささるような鬼の返答です。

 一回の絵解きには約4時間を費やしたとも言われていますが、かつての「立山曼荼羅」絵解きの「場」は、「地獄(絵)」を媒介に、語る衆徒とこれを聴く信徒(視聴者)の双方向により、現在はあまり語られない「死を直視し、そこから生きる力と、潔よくいきる倫理を」教え、かつ学ぶ知恵の時空間であったのです。
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