特集


地域と歴史の視点からみた市町村合併
富山地学会会員・富山近代史研究会幹事 須山 盛彰


はじめに

 1889年(明治22)、市制・町村制が施行された。それまでは江戸時代から続く自然発生的な町や村落が単位となっていた。行政単位としての市町村が誕生して以来、幾たびか合併の波を経て今日に至っている。1889年4月における全国の市町村数は15,859、富山県の市町村は271であった。それに対し、2000年(平成12)7月の全国の市町村数は3,229、富山県は35市町村で、福井県とともに全国最小となっている。
 今次の市町村合併では、全国の市町村数を全体の3分の1の1000市町村程度にまで減らすのが目標であるとされている。時代の変化や国家財政・地方財政の現状をみると、その必要性は認められる。しかし、ともすれば国や地方自治体の財政安定の視点のみから論じられていることに、疑問を抱かざるを得ない。なぜならば、市町村合併は地域住民にとっては自治の存亡にかかわる問題であり、また一方では日常生活への影響が極めて大きい問題である。それゆえ、「人口」や「財政規模」など単なるスケールメリットのみで議論されるべきではなく、地域の視点から論議されることが必要であると考える。
 本稿では、地理学および富山県の近現代史を学んできた一学徒として、地域の視点および歴史的経緯を踏まえて、今次合併の問題点および在るべき姿を考察してみようとするものである。


1.町村合併の経緯―強力な行政指導で推進

 地方自治体、なかでも市町村は「民主主義の学校」と言われ、最も民意が反映しやすい存在として、また最も身近な生活にかかわる存在として頼りにされてきた。しかし、一方では市町村の歴史は合併の歴史とも言え、合併により区域が拡大し、その数を減じている(第1表)。交通通信機関の発達や人々の活動範囲の拡大など、時代の進展による当然の変化と見られる場合もあるが、住民自治の理念や生活の便宜に反する点がなかっただろうか、各期の合併について考察してみよう。

第1表 全国および富山県の市町村数の変遷

(「富山県における広域行政・市町村合併に関する調査研究報告書」による)

(1) 明治期―市町村の創設
 政府は1888年(明治21)4月、市制・町村制を公布し、旧来の自然集落的な町村を再編成し(分合と言われた)、地方行政を担う単位としての市町村を創設した。全国に7万以上あった大小の自然集落を300戸ないし500戸の町村にまとめるものであるから、地域住民からみれば合併であった。長い間の集落的な因習や感情的な利害がからんで、紛議抗争が各地で発生、北海道・香川・鹿児島・沖縄・島根・長崎・東京などでは、非実施区域および未実施区域が多数にのぼった。
 富山県では県が集落の中に立って斡旋調整に努めた上で、1889年3月19日、県令第37号をもって一大合併を断行した。『富山県町村合併史』上巻によれば、調整の過程で明らかになった町や村の意向を建議または陳情のかたちで提出させ、県はそれらを斟酌して原案を作った、としている。この結果、旧来の269町2,452か村が、2市31町238か村となり、約十分の一に減少した。合併の経緯としては、県が示した原案をそのまま受け入れたものといってよかった。当初、進まなかったのは各町村(住民)自ら決めることができなかったからである。その後、明治年間には目立った紛議もなく、村名変更と分村が各一件あったのみである。

(2) 大正期の合併―都市への吸収
 1914年(大正3)7月、第一次世界大戦のぼっ発に伴い日本の産業経済が急速に発展した。その現れの一つに都市への人口集中があった。一方、大正期に入って国民の政治意識が高まり、激しい普通選挙運動などが展開されたので、これらに刺激されて地方自治の意識も高まって、全国的に市制を施行するもの、都市の地域を拡張するものが多くなってきた。
 富山県では新たな市は誕生しなかったが、富山・高岡市への編入合併、すなわち都市を中心に周辺地域の編入が盛んに行われた。また、人口増加の著しい地域では、町制が施行された。それらの主なものは、以下のとおりである。

第2表 大正期の主な合併
第2表

 都市へ周辺の町村が吸収されるというのも、合併の型の一つである。なお、合併の呼称は従来、市と町村の立場を区別する「町村合併」が一般的で、「市町村合併」という今次の表現は政策的な配意のもとで使われていると思われる。

(3) 昭和戦前期の合併―合併不振県から推進県へ
 1940年は皇紀紀元二千六百年の記念式典が盛大に行われ、各方面で様々な記念事業が実施された。地方自治体では、奉祝事業として町村合併を取り上げるところが多く、全国的に行われた。富山県でもこれに呼応して、1939年6月「町村合併について」のパンフレットを発行し、各町村へ呼び掛けた。このパンフには富山県の合併熱が低いこと、一町村あたりの人口が全国都道府県中下から三番目というみすぼらしさであること、そのため町村民税の負担が多く住民が損をさせられているなどが記されていた。ついで同年11月、県に臨時町村合併調査会を設置し、同年12月には「町村合併計画試案」が策定され、強力に推進することになった。
 この結果、1940年中に33か町村、1941年中に11か町村、1942年中に21か町村の合併が実現した。全国では1940年中に206か町村の合併をみたが、富山県の合併進捗の成績がはるかに上回った。この時期の合併も強力な行政指導のもとに推進されたのが特徴と言える。合併が必要な理由は財政力を強くするためで、合併により税金が安くなるとメリットが強調された。主な合併は以下のとおりである。

第3表 昭和戦前期の主な合併
第3表

(4) 昭和戦後期の合併―合併先進県
 昭和戦後期の合併は、シャウプ勧告を契機に進められた。米国のシャウプ税制使節団は1949年(昭和24)に来日し、地方の財政基盤を確立するには町村合併が不可欠と勧告した。戦後、諸改革により市町村の行政事務が急激に増大し、弱小な町村は財政力や行政能力が伴っていなかったからであった。政府は同勧告を受けて、同年12月、地方行政調査委員会議を発足させ、1951年1月には都道府県知事に対して市町村の再編成に関する適切な措置を講じるよう通達した。これを受けて富山県では具体的な合併計画案づくりに入り、各市町村においても再編成の動きが活発化した。1952年4月、魚津町ほか11か村が合併して魚津市、8月には氷見町ほか3か村が合併して氷見市が誕生した。そのほか、出町・福光町・桜井町なども周辺地区をそれぞれ合併した。この時点で富山県の町村合併の進捗状況は全国の最上位を占め、千葉・京都・岡山などとともに合併の先進県と目された。
 1953年10月、政府は「町村合併促進法」を施行した。同法は3年間の時限立法で、町村人口をおおむね8,000人以上の規模にすることを標準に町村を再編成することとし、合併などに必要な事業の助成措置や、3年間に限って合併前の町村間の不均一課税を認めるなどの経過措置を定めていた。
 同法を受けて、県は県議会・町村議会議長会・県教育委員会・市議会議長会・市長会・学識経験者などから成る富山県町村合併促進審議会を設置した。同審議会は15回にわたる協議と現地調査なども行って、1954年9月、合併計画を発表した。同計画は68ある市町村を37に統合するもので、その組み合わせが具体的に提示されていた。ただし、付記欄に異なる組み合わせも示してあり、選択の幅があるようになっていた。
 町村合併促進法の施行とともに、富山県内の合併はさらに拍車がかかった。町村合併促進法がさかのぼって適用された1948年10月以降、同法が失効する1956年9月30日までに、県内では6市21町1村が誕生し、4町162村が減少した。この時点でも富山県は全国一の進捗率を示していた。

(5) 過去の町村合併―相手選びは県主導
 明治、大正、昭和戦前、昭和戦後の町村合併について一瞥したが、大正期を除いては政府や県が積極的に推進したことがわかる。中でも全町村が対象となった明治期および山間地を除く全地域が対象となった昭和戦後期は、合併町村の組み合わせに苦慮し、県などの提案に基づいて折衝が進められたのである。
 もとより市および町村は県から独立した自治体で、住民主導で物事が決せられるべきものである。しかし、こと合併問題に関しては相手のあることであり、また同一町村でも地域により利害が対立する場合があるので、軽々に判断できないことが多い。都市に吸収される周辺地域とか、合併してお互いに利益がある町村同士は自発的に合併が成立することが多いが、それ以外の場合は二の足を踏むのが当然であろう。にも拘らず、政府が合併目標を立て県がその達成を目標とした場合、県が主導的な役割を果たすのは当然の成り行きであった。
 明治期でも、昭和戦後期でも、県は慎重かつ巧妙に地域の枠組みを検討し、提示している。明治期の場合、まだ上意下達の時代風潮にあった。県が決定・提示すれば受け入れられることは間違いない。しかし、住民感情や日常生活の便・不便もあるから町村からの「建議」や「陳情」を資料とし、十分検討した上で県令を発した。
 昭和戦後期では1951年(昭和26)1月、知事の年頭の県政方針で町村合併を打上げた後、同年12月および1953年3月の二度にわたって「富山県町村合併試案」が作成され、市町村へ内示された。1951年3月の試案では、213ある市町村を51に再編するというものであった。その後、1954年9月、県は「町村合併計画表」を正式に公表した(第4表)。市町村への通達文の「まえがき」に「〜関係市町村の意見並びに県合併促進審議会及び県議会の答申に基き、自然的、歴史的、社会的、経済的諸条件を勘案し、市町村の合併計画を定める」と述べている。また、合併計画を立てた背景として「合併の必要性を感じながらも去就に迷う町村に方向を示唆し、或は自信を与え、また弱小町村が取残される事態を防止するため」と述べ、押しつけではないということを強調している。このように配慮された合併計画にも拘らず、市町村での受け止め方は多様となり、各地で様々な紛議が起こった。しかし、結果として県による具体的な合併計画の提示があったので合併が促進されたと考えるべきであろう。

第4表 1954(昭和29)年9月決定の富山県町村合併計画(その一部)

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2.今次合併の問題点

 今次合併に関する現在までの経過は、マスコミ等で順次報道されているのでここでは繰り返さない。ただ、政府の目標は市町村数を現在の3分の1の1000を目標としていること、政府による特例措置が受けられる期限を2005年(平成17)3月までとしていることを確認しておこう。
 このため富山県が行っている施策等が地域や歴史の視点からみて、どのような問題点をはらんでいるかについて、以下に述べたい。

(1) 県の合併施策―全県を見通した施策が必要
 富山県では、合併問題に関し経営企画部の市町村課で対応し、合併推進の姿勢を示している。これまでの県の施策の流れからみてやむを得ないところかもしれないが、富山県の市町村数が全国最小であることを確認し、合併施策が全国一律であるという点を問題にすべきであった。
 その後の県の推進施策は、国の推進マニュアルに従って進められているようである。国の行政改革大綱に基き地方分権推進委員会や地方制度調査会の答申などが、市町村への説明資料に使用されている。県議会における議論も財政基盤の確立のため、合併は「避けて通れない問題」とし、「住民の意見をよく聞いて」対処すべしと、市町村や住民の自主性に期待するというような内容であった。
 しかし前述したように、地方自治の本旨から言えば市町村の区画は狭いほど物事が徹底しやすく民意も反映しやすい。したがって、いつの時代でも住民に抵抗感があるのは当然であり、そのような状況の中で合併を推進するには、住民を納得させる条件と熱意が必要である。過去の合併と同様に市町村を包括する県が民意を図りながら具体的な合併計画を提示するなど、全県を見通した施策が必要ではないだろうか。
 もっとも、この点に関するマスコミなどの論調は、「上からの押しつけ」や「強制誘導」ではなく、あくまで住民の意志と責任で決するべきとしている。しかしながら、県議会で議論の上一定の方向性を出したり、県当局が具体的な叩き台を提供することは、具体的な論議を進める上で必要なことであると考える。

(2) 市町村広域行政等研究会の設置と「研究報告書」―市町村の参考になる?
 前述したように、昭和戦後期の合併推進のために、富山県市町村合併推進審議会が設置され、合併計画を策定するなどして重要な役割を果たした。今次の合併でこれに相当する審議会等は設置されていないが、あえて言えば市町村広域行政等研究会である。同研究会は県内市町村助役13人と県部局主管課長らの計24人で構成され、1999年(平成11)11月に設置、2001年3月、研究報告書をまとめて発表した。「富山県における広域行政・市町村合併に関する調査研究報告書」と題した報告書のメインは、第7章の市町村合併パターン例とそれの導き方である。パターン例については次項で述べることにして、ここでは導き方についてみてみたい。
 研究会が合併パターンを引き出すために、次の二つのことを行っている。その一つは、地域特性の分析として、通勤圏・通学圏・商圏・通院圏・JA合併・鉄道バス路線・広域市町村圏・一部事務組合等・地域医療圏の9指標を用いてクラスター分析※1を行った。その結果を統合したのが、第1図である。もう一つは、県民の意識調査が必要であるとして、アンケート調査を実施している。その最後の項目に、居住市町村との合併希望先市町村の調査があり、結果が相関表で示されているが、クラスター分析の樹状図と同じ傾向を示している。
 二つの分析には、現在の35市町村を面として捉えず、点で(等質地域として)捉えているという問題点があると思われる。例えば、「富山市と立山町は強度の一体性があり合併してもよい」ということになるが、一方では「立山の頂上まで富山市なのか」という反論が出るのではないだろうか。筆者ら地域研究者の常識では、少なくとも旧市町村の単位(35でなく昭和戦後期合併以前の200余り)で、この二つの調査を実施しないと地域の特性が見えてこないのである。
 総じて考えれば、研究会は当初から広域圏をベースにした合併パターンを想定し、それを理由付けるために二つの調査を提示したように受け止められる。
※1 クラスター分析:異なる性質のもの同士が混ざり合っている集団(対象)の中から互いに似たものを集めてグループ(クラスター)を作り、対象を分類する方法

第1図 クラスター分析による市町村の結びつき(統合9指標)


(3) 合併パターン例―広域圏のみを基本に策定されたのはなぜ?
 市町村合併パターンの策定は国のマニュアルどおりの施策とみられるが、富山県の場合、前記研究会が現在の五つの広域圏を基本に11のパターンを作成した(第2図)。
 この広域圏は、今次の合併パターン作成のベースに置くものとして果たして妥当なものであろうか。現在、富山県には五つの広域圏のほか、広域圏を補うものとして介護保険組合など17種類の一部事務組合がある。第5表に示すようにそれぞれの広域圏の共同処理事務が異なり、他の事務組合と市町村の組み合わせも異なる場合が多い。例えば、新川広域圏に所属している魚津市が新川地域介護保険組合には所属していないのである。

第2図 県が提案する市町村合併パターン例

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第5表 広域圏及び一部事務組合の構成と共同処理事務(一部)
事務
分類
名称 構成団体 共同処理事務 職員数
(専従)


富山地区広域圏事務組合 富山市、滑川市、立山町、上市町、八尾町、婦中町、大沢野町、大山町、細入村、山田村、舟橋町 広域市町村計画、粗大ごみ処理場、ごみ焼却場、公園、コミュニティセンター、第2次救急医療対策 71
高岡地区広域圏事務組合 高岡市、氷見市、小矢部市、福岡町 広域市町村計画、公害試料の分析、ふるさと市町村圏ソフト事業 16
射水地区広域圏事務組合 新湊市、小杉町、大門町、大島町、下村、富山市、高岡市 広域市町村計画、ごみ処理、公害防止、福祉施設、流域下水道、伝染病隔離病舎、し尿処理、火葬施設、ふるさと市町村圏ソフト事業、介護保険 41
新川広域圏事務組合 魚津市、黒部市、宇奈月町、入善町、朝日町 広域市町村計画、消防、一般廃棄物、勤労青少年ホーム、広域上水道、広域下水道、伝染病隔離病舎、老人保健センター、婦人の家、総合教育センター、郷土博物館、温泉プール、国民宿舎、火葬場、急患センター、ふるさと市町村圏ソフト事業 59
砺波広域圏事務組合 砺波市、城端町、平村、上平村、利賀村、庄川町、井波町、井口村、福野町、福光町 広域振興整備計画、環境保全センター、ごみ処理、し尿処理、霊園、働く婦人の家、救急医療、知的障害児通園施設、ふるさと市町村圏ソフト事業、消防 159



砺波地方介護保険組合 砺波市、小矢部市、城端町、庄川町、井波町、福野町、福光町、福岡町、平村、上平村、利賀村、井口村 介護保険に関する事務
上婦負介護保険事務組合 大沢野町、大山町、八尾町、婦中町、山田村、細入村 介護保険に関する事務
新川地域介護保険組合 黒部市、宇奈月町、入善町、朝日町 介護保険に関する事務
(「富山県における広域行政・市町村合併に関する調査研究報告書」104Pより一部抜粋)

 広域市町村圏は、昭和40年代、地域経済の発展に伴い従来の市町村行政の枠組みを越えた広域的な取り組みが要請されて誕生した。したがって地域の実状により処理事務が異なるのは当然であり、一律にみなせないのが特色と言える。それなのに合併パターン作成のベースに広域圏のみを取り上げたのはいかがなものであろうか。
 これまでの広域圏の実績を正当に評価し、合併の枠組みづくりに生かせる地域では生かし、そうでない地域では他の様々な条件を考慮して、枠組みを考えるべきである。特に重要なものとして、未合併町村の存在など、昭和戦後期の合併で残された課題をまず検討すべきではなかろうか。

(4) 市町村および住民の動向―何のための合併なのか?
 市町村合併に関する最近の市町村の動向を見て、マスコミは「温度差が大きい」と評している。しかし、温度差どころではなく、地域や歴史の視点から見れば、誠に無秩序な動きをしているとしか言いようがない。強いて言えば、極めて現実的な対応を強め、合併後の主導権の行方に強い関心が払われていると言える。このままにしておけば、一層この傾向が強まると予測される。
 ここで市町村や地域住民が考えるべきことは、合併すべきであるかどうかは大前提であるが、何のために合併するか、どんな枠組みが考えられるかなどについてである。
 直接民主主義的な観点からは合併反対の意見も出てくるであろう。しかし、行政課題が広域化し事務量も膨大になる一方なので、ある程度の規模は必要であると考える。
 合併の必要性は、煎じ詰めれば財政基盤の確立という事になろうが、単に経費の節減や交付税の増額、合併特例債の措置などを当てにして軽々に合併すると、合併の本旨から外れる結果になる恐れがある。昭和戦後期の合併で旧町村から出た合併条件を満たすだけで四苦八苦した事例が多かったことを教訓とすべきである。むしろ、教育・福祉・環境保全・その他の住民サービスが全体として現在よりうまくいくかどうかを尺度にして判断すべきである。さらにもっと大切なことは、合併により将来の税収増を図るための地域開発や産業の振興・新産業の創出など地域開発の可能性、新しいにぎわいの拠点づくりなど、地域の持つ魅力を発見することである。最近、地域連携によりIT集積やくすりバイオ、集落営農などの経済特区を創設する構想が考えられているが、合併を地域振興の起爆剤にできないか、検討する価値がある。


3.地域の視点からみた市町村合併への私見

 市町村合併の問題は、様々な研究分野で研究対象となりうるが、現実に進行している問題については極めて扱いにくい。しかし、過去の研究で明らかになっていることを援用して、現実の問題を論評することは許されよう。最後に今次の市町村合併の中で最も重要な市町村の枠組みに関して、地域研究の視点からみた私見を述べよう。

(1) 一定規模以下の自治体は検討を
 自治体の規模は人口のみで決まるものではないが、基本的な要素としての人口が1万人未満の自治体は周辺との合併を検討すべきである。富山県内に11町村存在するが、昭和戦後期の合併でいろいろな理由で独立を保った町村が多い。山村同士の組み合わせや平野部の近隣町村との合併の道がないだろうか。

(2) 大規模合併は必要か
 富山市を中心に50万都市を、高岡市は30万以上で中核都市を、砺波広域圏も一つにできるのではないかというのが、前記の合併パターン例の中に提示されている。これらの合併案はスケールのみを尺度に枠組みし、合併してどんな都市をつくるのか具体的に考えられていないのではないか。大規模合併論者は、金沢市・新潟市などとの都市間競争を理由にあげるが、スケールに見合った経済力をつけることや都市の個性をもつことが必要である。富山市はともかく、高岡市は氷見市・小矢部市・新湊市などを含む地域と合併してどのような都市像を描くのか極めて疑問である。

(3) 新川広域圏はまとまりがよい
 県が提案する合併パターンでただ一つ肯定できるのは、魚津以東の合併パターンである。この地域は明治期以来、下新川郡としての地域性が濃厚に存在し、まとまりがよい。ただ、都市の核がどこに形成されるか気になるところであるが、実のある合併協議を行い、合意形成していくことが必要であろう。魚津市の一部に滑川市と合併を希望する動きがあると聞くが、まとまりに欠けるのではないだろうか。

(4) 大同合併が困難な常願寺川以東の町村
 明治以来中新川郡としての連帯意識があった地域であるが、昭和戦後の合併で水橋地区および三郷地区が富山市へ合併してから地域的な断裂状態になった。したがって、滑川市・上市町・立山町の三町が地形的にも分立し、結びつける力が弱い。水橋地区が富山市から分離できれば、滑川市または上市町との合併の可能性が生まれる。また強いて言えば、各町村と富山市との関係が同じ程度に強いので、将来的には富山市との大同合併の可能性はあるだろう。

(5) 富山市は合併パターンにとらわれず多様な可能性を
 富山市は、地理的位置の優位性や求心力の大きさから多様な可能性が考えられる。県の合併パターンは、富山広域圏がベースになっているので、富山市の南東に位置する、南に山岳地域を含む町村との組み合わせになっている。富山市が持つ地理的位置の優位性や求心力の大きさを考えれば、合併パターンにとらわれず、隣接する新湊市や射水郡の町村、さらには高岡市までも射程距離に考えることができる。これらの市町村では、地域的に連携することにより地域開発や産業の振興・新産業の創出など地域開発の可能性があると思うからである。

(6) 上新川郡・婦負郡の町や村
 大山町・大沢野町・婦中町・八尾町・細入村・山田村・など上新川・婦負郡の町村相互の関係はさほど深くなく、富山市を仲介に結びつく状況にある。富山市と共同で行う広域圏はごみ処理を中心としている。通勤・通学や買い物など富山市との結びつきは強いが、富山市と合併した場合、どのような都市づくりが期待されるのか、周辺部にまで行政サービスが行き渡るのかなど疑問な面が多い。大山町や八尾町のように広大な山地を控えた町は、特別の行政措置が行えないか、この際、県などが国に働きかけることも必要であろう。

(7) 射水広域圏の町や村
 県の合併パターンは射水広域圏を一つにまとめているが、筆者は新湊市と射水郡と一応区別したい。射水郡の4町村は、共通点が多くまとまりがよい。新湊市は、射水郡の町村とは異質な面があり、富山市との合併を選択肢の一つに持つのも一方法であろう。新湊市東部地域の通勤・通学者は圧倒的に富山市へ流れており、富山市和合地区や呉羽地区との関係も密接である。さらに、富山新港と富山港の連携や後背工業地域の活性化により日本海沿岸の拠点都市としての整備が行いやすくなる。

(8) 高岡市・氷見市・福岡町
 高岡への求心性が強いが、地域連携による地域振興が図れるかどうかで、合併の可否が分かれるところであろう。なお氷見市は能登半島の入口であり、石川県の市町村との関係も深いものがある。また福岡町は明治以来、西砺波郡であり、小矢部市とも深い関係がある。

(9) 小矢部市
 古くより交通の要路にあり、今日でも国道8号、北陸ならびに東海北陸自動車道などの結節点として特色がある。石川県の市町村とも深いつながりがある。このような地理的優位性をどのように利用するかにより、合併の可否、合併の枠組みが定められよう。砺波市、福岡町との枠組みも考えられよう。

(10) 砺波広域圏の市町村
 ふところが広い砺波平野では、古くから多くの町が適当な間隔で発達し、適度な緊張感をもって競合し発展してきた。一極集中的な発展方向を目指すより、分散してそれぞれが地域的特色を発揮しながら砺波地域全体としての充実を図るべきではなかろうか。したがって、合併は地域的により関係の深い町村同士の小規模合併にとどめ、これまでの広域圏や広域連合の機能をより充実させて、砺波広域圏全体の連携を図るのがよいのではないだろうか。
以 上

《付  記》
○本稿は、須山盛彰「地域の視点からみた市・町村合併」(『近代史研究』第25号収載)および須山盛彰「富山県における市・町村合併の経緯と問題点」(『自然と社会』第68号収載)の報告を基に執筆したものである。
○本稿は、2002年10月10日現在で執筆した。

《参考文献》
○『富山県町村合併誌』上巻・下巻 昭和36年 富山県発行
○『富山県史』通史編 現代 昭和58年 富山県発行
○『富山県史』史料編 現代 昭和55年 富山県発行

この寄稿に対する県市町村課の意見を次号以降に掲載する予定です。

とやま経済月報
平成14年11月号