経済月報連載38年間の思い出
八尾 正治

 時代の変転は目まぐるしい。情報化のテンポも、目をみはるものがある。そして情報の伝達手段も、活字媒体からインターネットによる映像媒体へと、ポイントが移りつつある(しかし、かくいう私はいかなることがあっても、活字本は絶対に滅びないと信じている)。「経 済月報」もこの波にそうべく、西暦2000年を迎えた平成12年の4月から、インターネット 主力の伝達に移るという。
 この月報が創刊されたのは、昭和36年4月号からである。以来県内における数少ない経済雑誌として、経済時評やレポート、統計データなどを登載し、富山県経済発展の一躍を担 って活動を続けてきた。今日まで40年もの長きにわたって、経済の盛衰とともに歩んでき たわけである。
  月報発刊の頃は、朝鮮戦争の特需の刺激を受けて、日本経済の上昇発展期を迎えていた。 県内の経済も活気を呈し、各種の大型プロジェクトの実施がひしめいていた。昭和38年6 月には、黒部川第4発電所が完成し、8月には富山空港が開港した。39年には、富山・ 高岡新産業都市の指定建設が決まり、工業立県の重点目標が促進された。43年4月には、 海の夢といわれた富山新港が開港して、背後の工業地帯の造成が進んだ。46年6月には、 山の夢といわれた立山・黒部アルペンルートが開通した。
  交通機関の整備も進み、北陸線、高山線の電化や北陸高速自動車道の開通と、大事業の完成が陸続と連動した。県民会館をはじめとする文化施設の増設も急テンポに進み、今では ホールを持たない市町はないくらいである。情報産業の発展も、目をみはるものがあった。

 この間、イタイイタイ病などの公害や、オイルショック、バブルがはじけた経済不況、金融不安など、暗い事象もあったが、上昇気流に乗った発展期だったことは、衆目の認める ところである。家庭電化、上下水道、マイカーの普及など、県民生活水準のレベルアップの時期でもあった。
  こんな経済激動期に当たって、「経済月報」は県経済の確実なファクターを分析解明し、経済発展のためのよき指標を提供してきた。
  その40年の長い実績を回顧して、それなりの役目を果たしてきたといえよう。雑誌とし ての役目を終え終刊号を発行するに際し、私としてはまことに愛惜の情切なるものがある が、これも近代化のしからしむるところと思い切らざるを得ない。

 私が乞われて「経済月報」に初登場したのは、昭和38年3月号からである。当時統計課長だった小浜喜一さんから
「八尾さん。この雑誌は数字が中心の堅苦しい記事が多いから、ソ フトな郷土史物語を書いてくれませんか」との依頼だった。
私は、「休憩室コーナーのつもりで書きましょう。経済に限定せず、富山の歴史なら何でもいいですか」というと、「それで結構」ということになった。同じ県庁マン同志だ。すぐ話がまとまった。
  小浜さんは、私の敬愛する友人である。東京大学の経済学部を卒業され、計量経済学が得 意なエリートだった。その発想の妙は、ベストセラー「経済指標のかんどころ」と、この「経済月報」の発行の立案が物語っている。名統計課長として、のち統計マンに与えられる大内 賞の栄誉を受けられた。
 私は、これより先の昭和33年の富山国体の際、行幸啓係長としての重責を終え、地方課 の振興係長として、37年まで町村合併と新市町村建設を担当していた。市町村職員の研 修を目的として、季刊誌の「自治富山」の編集にたずさわり、自らも郷土史物語を連載して いた。小浜さんはこれを読んで、私に白羽の矢を立てたものらしい。「八尾さん。〈自治富 山〉のあの調子でお願いしますよ」というのである。
  以来今日に到るまで、牛のよだれの如き私の拙文が長々くどくどと、月報の一隅をけがす ことになった。まず「実録米騒動」からスタートした。以来長いシリーズものでは「越中花の 合戦・月の古城ものがたり」「ふるさとの民謡を訪ねて」「富山画人伝」「3代世相おもしろ史」 など。人物伝もよく取り上げた。「高岡のいろまち」という、異色のものも書いた。私の手元には、「経済月報」が汗牛充棟もただならず、段ボール箱に山積みされている。

 私としては、郷土史研究はもともと好きな道である。書かなければならないという義務感を背負って、ひとつのテーマを定めると、ひたすら資料の収集に努める。そして構想をまとめ、執筆する。それがまた私にとってはまたとない勉強であり、未知の世界に入ろうと する面白さである。もとより到らない点が多い。禿筆に鞭打っても、駄作の連続という結 果に終わることがある。付き合って下さった読者には、申し訳ないという気持である。あ らためて貴重な誌面を提供して下さった歴代の統計課の方々と、読者諸兄に感謝申し上げ たい。
 今回連載の「生きて歌って−私の歌謡史−」シリーズは、富山には全国にあまねく知られた 愛誦歌が少ないことに思い切ないものがあり、あの「夕焼け小焼けの赤とんぼ」のような、 万人に愛され歌われる歌が出てほしいという願いから、書き出したものである。市町村の 歌めぐりも、氷見市を終わって、あと砺波市、小矢部市と、東西両砺波郡の各市町村を残 すだけになった。筆を止めることは、残った市町村の方々には申し訳ないが、いかんとも しがたい。
 最後に、経済発展には情報の大切なことを力説しつつ、今後の富山県経済の健全な発展を 切望して、筆を置く。低頭、多謝。


著者略歴
大正9年9月1日、富山市生まれ。
旧制県立神通中学卒、自治大学卒。
昭和13年、富山県庁人事課兼秘書課へ入り、
 土木部次長、社会教育部長、総務部次長、
 議会事務局長を経て、昭和52年退職。
 その後、教育文化会館長、文化振興財団専務理事を歴任。
著書「越中残酷史談」ほか、「富山県史」(共著)、「富山市史」(共著)など、50数冊。
現在、富山県郷土史会長など郷土史研究団体に所属。

 八尾先生には38年間、本当に長い間ご執筆いただき、ありがとうございました。心から感 謝と御礼を申し上げます。 (編集部)

 +++ もどる +++