4.「この都市のまほろば」を求めて
町村合併や道州制、中央集権から地方分権へと21世紀の日本の都市は確実に国民国家から生活者主体の市民文化の時代になろう。しかし、そのシナリオがそれぞれの地方都市に見えていないのが問題である。知財立国・観光立国はナンバーワンからオンリーワンの必要性を求めているものの、文明と異なり文化の競争は分かり難い。多様な価値と新しいライフスタイルの定着はこれからであって、今はわかっていないのが現状であろう。
都市間文化比較をするに当たり、東洋経済の都市データパックに見る住みよさランキングとは異なる文化的表現として、中央公論に「この都市のまほろば」を連載することになった。趣旨は深田久弥が「日本百名山」を書くに当たって1,500m以上の高さで品格、歴史、個性、演技、風物の魅力を文章化したことを参考に、日本の100都市を書くことにした。100万人の求心力をもつ都市を選べば、21世紀中には日本人の都市を書けるはず。
「まほろば」とは「ほんとうの本物」という意味とすれば、そんな都市をつくるためには、現状から消えるもの、残すもの、そして創ることが不可欠と考えた。かくして、2003年4月号から2004年12月号まで21回の連載を終えた。
その都市から「消えるもの」、変化するダイナミズムあっての生きた都市である。人と食の生活文明がそれに相当する「ケ」の場の姿で、消えて欲しいもの、消したいものもあるが、一方では、だからこそ残しておきたいものになる。「残すもの」は歴史であり、地の利であり、自然の風土であろう。100年を越えて千年も万年先も残すべきものの中に、人間が築いた生活文化がある。そんな素晴らしい文化も、最初は創造という挑戦から始まる。伝統は創られ続けることによって維持されるといわれるように、この都市には「創ること」があってはじめて継続する。生まれ変わることなくして「この都市のまほろば」は存続し得ない。日本の19都市と上海、ソウルを連載して、多くの方々からたくさんの情報を得ることができた。外部評価の時代、見られ、評価されることによって、都市も磨かれ輝くはずである。
5.富山の「まほろば」を求めて
(1)消えるもの
立山は三霊山(加賀の白山、駿河の富士山)として全国の立山信仰を勧める一方、死者に着せる「経帷子(きょうかたびら)」を病気除けの御札と一緒に配置した。その際、前年に使った分の代金をもらう「先用後利」の慣わしがあった。富山藩二代正甫(まさとし)が岡山の医師・万代常閑(まんだいじょうかん)から名薬「反魂丹」の製法を教わり、これを越中売薬として全国の家庭に配置。「先用後利」の商法として売り歩くことによって藩財政を支えた。今日も富山の配置薬生産額は全国の54%を占める売薬王国で、その一軒として池田屋「反魂丹」の店は今も西町に当時の雰囲気を残して営業しているが、佐伯宗義という男が1943年に、県下の越中鉄道や立山鉄道、黒部鉄道等の各私鉄に加えて、県や富山市営軌道を一体統合し、「富山地方鉄道」を設立した。これを国鉄とネットワークさせることが産業発展の源となることを説き、山間僻地に住む人々に対しても、都市生活者同様の利便性を実現してみせた。
チューリップ畑や礪波平野の散居村の美しさは格別である。上流には世界芸術祭の拠点となった利賀村の野外劇場や秘境と呼ばれた平村、五箇山の相倉(あいのくら)・菅沼合掌集落は、「日本を代表する風景」として、また「民謡の宝庫」として、1995年世界遺産に登録された。
高岡から能越自動車道を経て、開通したばかりの東海北陸自動車道を使えば20分で五箇山インター、さらに5分で白川郷インターに至るため、白川郷の世界遺産集落共々に平家の落武者の築いた静かな秘境のイメージは薄らいだことが心配である。
(2)残すもの
富山は山海の自然資本に恵まれたが故に、江戸時代は本藩である加賀藩の、明治維新以後は国家のために大きな役割を担ってきた。電源開発、港湾、工場コンビナート等は県民生活のためより、むしろ中央集権に寄与するためでしかなかった。したがって、以降はこれまで用立てた分を回収する具体的プログラムを考えるべきである。富山の峻厳な自然が育んだ逸材に、地元へ戻って活躍してもらうことこそが、人材に後利を得る最良の選択と思われる。そのための環境づくりを考えねばならない。そして「越の国」のサスティナブルシティ(持続可能な都市)を目指して、地域の独立を描いた先達の高い志を実現させたいものである。
大伴家持は、奈良の都から越中の国守として赴任、立山連峰の雄大な自然と当地の人情に感動し、5年間の在任中、220余首もの歌を詠んだ。富山を故郷とする人々の原風景も、この海岸線から直立した3,000m級の立山・剱岳の峨々嶺と、それに包まれた天然の円形劇場の如き閑かな扇状平野である。
高岡万葉まつりは古城公園の閑かな扇状平野で、連続3昼夜に渡り2,200人を越える人たちのリレー方式で万葉集全20巻4,516首を朗唱する。
前田利常は高岡の開祖となった利長の墓所を1645年に、菩提寺となる瑞龍寺(国宝)を1663年に建設。寺と墓所を東西に結ぶ870mの八丁道に並ぶ石灯籠や松並木の石畳を歩くと、今も高岡市民が開祖を敬愛している気持ちが伝わってくる。利長が命じて発展させた高岡鋳物発祥地の金屋町の町並みや商都高岡の土蔵造りの町並みもまた万葉のふる里にふさわしい。
(3)創ること
富山は持ち家率79.3%、戸当たり延べ床面積146m2と全国一で、持ち家率は最下位の東京に比べて1.8倍である。
富山・高岡の間にできた巨大な富山新港、富岩運河の環水公園、富山医科薬科大学、県立の大学や中央植物園や水墨美術館、市立の民族民芸村やファミリーパーク等々への交通網が完備。北陸新幹線のフル規格乗り入れや、北陸自動車道に加えて東海・北陸自動車道も完成。環日本海時代の富山・高岡は新潟・金沢と共にロシア、中国、韓国等の対岸貿易の拠点として、その発展が期待される。
中沖豊前知事が作成、配布している逆転の日本海地図を眺めるだけで、表日本と裏日本の逆転像、環日本海時代が見えてくる。そして気がつけば、道路整備率、空港、海港、水力発電、持ち家率等々、人口あたりに換算すれば、実に豊かである。それを確実な姿で示すためにも、環日本海文化交流と北東アジアの経済交流の拠点づくりをめざした「日本海ミュージアム」構想である。
1951年の電気事業再編成にあわせて、全国に先駆けて富山県の総合開発計画が策定され、これには立山の観光開発計画が組み込まれていたのである。しかしながら、関西電力が建設した「扇沢・黒部ダム間のトロリーバス」は今も関西電力の支配下に置かれたままであり、「欅平・黒部ダム間の砂防工事専用軌道(トロッコ)」はハガキ応募による参加者限定見学会を行うに止まっている。佐伯の後継者である金山秀治氏によれば、「立山・黒部アルペンルート」の観光客は近年では毎年100万人を超え、今や富山県全人口に匹敵するほどになっている。国際化の進展の中で、外国人観光客も年々増加している現況から、アルプスに劣らない観光資源を本格的に生かすには、三ルート(トロリーバス・トロッコ・アルペンルート)のネットワーク化と観光インフラ化以外にはない。
将来の新幹線の開通による影響としては、富山空港の国内線の維持が困難となることも予想される。JR在来線の北陸本線直江津〜福井間も、完全にローカル線となり、沿線の県のみの乗客では維持管理が大きな課題となること必定である。その対策として、福井・石川・富山および新潟の上越部分の一貫経営を考え、各県に既存する交通体系を機能的にネットワークさせ、「越の国」の民鉄主体の新しい地域交通ネットワークをつくり、その活用と自立の手法研究を早急に開始したらどうであろうか。
そのためには、富山県は隣県の石川県、福井県と一体となって、それぞれ固有の観光資源の活用をはかる、北陸地方のより広域な観光流動圏のような考え方が大切となる。そして行政の枠や企業の枠を超えて、観光客流動圏域の実体を把握し、将来を予測するべきであろう。これを怠ると新幹線や、高速道路、航空路線、高速船舶等の整備や就航により、逆に現在維持している人口が大都市に吸収される、いわゆる「ストロー現象」によって、いっそう地域間格差を招く恐れがある。 |