特集

「はたらく喜び」、私利私欲と経済

広島大学総合科学部助教授 布川 弘


はじめに

 「はたらきがい」とは一体なにか、そうした疑問がふと浮かんでくる時はありませんか。「はたらく喜び」というと少し照れくさい感じがするかもしれませんが、どんな仕事でもそれなしには働き続けることができないような気がします。作物がものの見事に実った光景を見るとき、ちょっとした工夫で生産ラインのスピードが上がったとき、プレゼンをほめられたときなどなど、私たちの身の回りには、何でもないことのようですが、「はたらく喜び」があふれているような気がします。
 通勤時の何ともいえぬ憂鬱な気分も、それらのわずかな喜びがあるからこそ、耐えられるのかもしれません。そして、その喜びとは、必ずしも給与明細にはあらわれていない、それとは別次元のもののような気もします。ですから、「はたらく喜び」という問題は、従来の経済学、あるいは経済という概念にはなかなか入ってこなかったわけです。むしろ、経済学が数量の問題に純化していけばいくほど、全く省みられなくなったと言ってもよいかもしれません。私は、それを全く裏返して、「はたらく喜び」ということに徹底的にこだわってみることによって、経済を考えてみたいと思っています。
 これは、私のオリジナルな発想ではありません。今から百年近くも前に、賀川豊彦さんという人が「主観経済」という言葉で表現した事柄であり、柳宗悦さんという人が手仕事=民芸の美を感じた感覚であり(『手仕事の日本』)、また、最近では、東京大学東洋文化研究所の松井健さんが「マイナー・サブシステンス論」という議論を提唱して、その中で特に重要な要素として取り上げられている問題でもあります。私は、そうした方々の受け売りをしながら、経済をどのように組み立てていくべきか、という大それた問題にくちばしを突っ込んでみたいと思います。荒唐無稽と思われるかもしれませんが、少し我慢してお付き合いください。


一、私利私欲をとらえかえす

 日本社会では、「私利私欲」という言葉は強いマイナスイメージを伴って受け取られるような気がします。つまり、公共の利益というものの対極にあるもの、あるいは理性の対極にあるものとして、常に否定されがちな言葉なのです。しかし、そもそも西欧で始まった近代経済学は、個人の欲望を前提にして組み立てられてきました。
 ただし、近代経済学における個人の欲望=私利私欲は物資的な豊かさへの願望に極限して考えられてきました。それに対して、加藤典洋さんは、国家や公共というものの基礎におかれるものとして、私利私欲をもっと深い次元でとらえかえそうとしました(『戦後的思考』)。それは、人を愛する感情や美しいものに魅かれる感情など、人間が本源的にもつ情念であり、同時に、他者との共感を仲立ちとして社会につながっていく可能性をもつものです。加藤さんは、そうした私利私欲が強ければ強いほど、公共というものの基礎もより強くなるというとらえ方をしておられます。
 最近、『冬のソナタ』という韓国のテレビドラマが日本で大ブームになっています。おそらく誰もが不思議に思っていることなのでしょうが、このドラマには濃厚なラブシーンというものが全くありません。強い情感に基づく語りと表情があるのみで、それが私たちの胸を打ちます。私の勝手な思い込みですが、私たちはこの隣国のテレビドラマによって、加藤さんが言う私利私欲というものに気づかされたように思えるのです。
 私たちは私利私欲を抑えることに随分慣らされてきました。おそらく日本社会では、江戸時代の後半あたりからそうした私利私欲を抑制する力が強まり始めたのではないでしょうか。安丸良夫さんが注目した、勤勉・節約・孝行などの通俗道徳がこれにあたるように思えます。もちろん、私利私欲を抑制するということは、一方で私利私欲を主張する主体が成長してきたことを意味します。同じ頃に本居宣長さんという人は、加藤さんの言う人を愛する感情や美しいものに魅かれる感情など人間が本源的にもつ情念として、「やまとごころ」を発見しました。おそらく読者のなかには、「やまとごころ」を「大和魂」という雄々しい心としてとらえておられる方も多いと思いますが、宣長さんの「やまとごころ」の本来の意味は、加藤さんの言う私利私欲と同じものです。
 私には、江戸時代後半から現代にいたる日本社会の歴史が、私利私欲の発露とそれを強力に抑圧する力の相克の歴史に見えるのです。とりわけ、西欧からやってきた近代化の論理は、西欧社会とは逆に、日本の社会で後者の力をより強いものとして仕立て上げてきたように思えます。宣長の思想は正反対の「大和魂」というものに捻じ曲げられてしまい、私利私欲は「女々しさ」や「弱さ」という表現をかぶせられて放り捨てられようとします。素直に喜びや悲しみを表現することは、公の世界から押しのけられ、私利私欲に基礎付けられない「公」が確固としたものになりました。
 それは現代にも引き継がれているように思えます。例えば、ご記憶だと思うのですが、いわゆる「バブル経済」の時期、当時はお堅いことで知られた大手の銀行が、かなりいい加減な会社と手を結びながら、ダブついた資金を土地と株につぎ込みました。私は銀行マンのはたらく喜びを知っているわけではありませんが、素人考えでは、当面それほど利益は見込めないにせよ、将来性のある企業に幾ばくかを融資し、その企業が見事に成長をおさめて、何年か後には確実な投資の回収と利益が見込まれるような、そうした経営スタイルがある種のはたらき甲斐に結びついているような気がします。そうした観点からするとバブル期の投資は理解に苦しみます。ですが、右肩上がりの大幅な収益を求める会社=「公」の意志が、銀行マンの働き甲斐を押さえつけて一人歩きしたと理解すると納得がいきます。この場合のはたらき甲斐こそが私利私欲なのです。あるイギリスの銀行マンは、徹底的に自分の利益=私利私欲にこだわっていたなら、日本のバブル経済はなかったと言い切っています。私利私欲をおさえた「真面目で従順」な人びとが、かえって経済を駄目にしてしまうわけです。


二、徹底的に喜びの追求を

 ホンダの創業者である本田宗一郎さんは、ある時社員の前で「これでトヨタや日産を追い越せる」と発言したところ、「私たちはそんなことを目標にここではたらいているのではない、お客さんが喜ぶ製品を作るためにはたらいているのだ」と、ある社員に批判されたそうです。それをきっかけに、本田さんは引退しました。私はこのエピソードが好きで、機会があるごとに披露してきました。ここで本田さんにぶつけられたある社員の批判こそ、はたらく喜び、私利私欲の素直な表現なのであり、もの作りの原点に他なりません。それはお客さんを仲立ちにすることで、社会、公とつながっています。自分は喜んでものを作る、そしてそれがお客さんの共感を得る。自分の私利私欲を徹底的に追及したときに初めて社会とつながることができ、はたらく喜びを実感できるわけです。本田さんが修理工場を作ったときも、その社員と同じ原点に立っていました。それを見失いかけたとき、本田さんは引退したのです。
 はたらく喜びを実感する、あるいは深い私利私欲を実現することは、必ずしも楽なことではありません。むしろ、寝食を忘れた打ち込みによって、肉体的な疲労を伴うことが多いかもしれません。労働時間に対する感覚が弱く、長時間労働の温床となるのではないか、といった懸念をもたれる人もいるかもしれません。しかし、はたらく喜びを実感できる労働とは、苦痛を伴う長時間労働の対極にあるものと理解すべきだと思います。リストラなどによって企業収益が好転して一見好景気になったとしても、それは私の言う私利私欲の抑圧に他なりませんし、サービスや製品の質を確実に落とし、そうした質の悪化が社会に跳ね返っていきます。最近多発する大型トラックの事故の原因が一体何なのか、それを考えてみるだけでも、そのことはよく理解できると思います。
 企業経営を批判するとき「利益優先」などという言葉を使う人がいますが、これは私の観点からするととんでもない的外れな批判です。企業が利益を優先するのは当たり前のことであり、むしろ利益の追求が徹底していないことに大きな問題があると思います。前述した本田宗一郎さんの私利私欲に対する感覚を思い出すべきではないでしょうか。目先の収益率だけにこだわると、人減らしと長時間労働によってグラフは右肩上がりになるでしょう。こんなことは考えなくてもわかることではないでしょうか。人を批判できる立場ではないのですが、十人並みの、私利私欲の浅い、「お利巧さん」がどの世界でも上に立っているように見えて仕方がありません。


おわりに

 どうも専門外のことに口をはさみ、勝手なことを言い過ぎたようです。お聞き苦しい点がございましたら、謹んでお詫び申し上げます。ただ、私としては、加藤典洋さんに教わった私利私欲というものが、これからの経済や社会のあり方を考える上で、最も基本になるという思いが強くあります。にわかには分かっていただけないかもしれませんが、だまされたと思って、はたらく喜びというものをもう一度考えてみようではありませんか。

とやま経済月報
平成16年9月号