特集


砺波平野の散村の変容と景観保全
砺波散村地域研究所 事務局長 新藤 正夫


1.庄川が育んだ散村

砺波平野の散村 砺波平野では、屋敷林に囲まれた農家が平野一面の水田地帯に50〜150mの間隔で不規則に点在する散村が拡がる。この散村集落は、主に中世末から近世初頭にかけて形成されたようである。砺波平野は乾燥した扇状地性の平野であるが、庄川・小矢部川の豊かな水と肥沃な沖積土に恵まれて早くから水田開発が行なわれてきた。既に8世紀中ごろには奈良東大寺の荘園が存在するなど広く開発が進んでいた。しかし、扇状地を流れる庄川は洪水ごとに河道を変えて乱流し、川の氾濫によって古い集落は流されたり埋積したりすることが多かった。現在、庄川は平野の東端を流れているが、かつては庄川町金屋から北北西に流れて小矢部川に合流していた。その後、洪水ごとに流れを東に変えて、宮川、中村川、新又川となり、1585年(天正13)の大地震後の洪水で千保川、中田川(現庄川)へと移り、1630年(寛永7)の洪水で庄川に支流が移った。しかしその後も氾濫をくりかえし、現在の庄川に流れが固定したのは、1714年(正徳4)に庄川町の弁財前「天松川除」の堤防が完成してからのことである。

 散村集落の成立は、庄川扇状地の緩傾な地形と豊かな水に恵まれた自然的特性と開拓事情によるものである。開拓は、洪水の危険の少ない河道に挟まれた微高地帯から始まり徐々に周辺部に及んだ。用水路を引いて居を構えて周囲を開墾したが、その際どの家も周囲の水田を耕作するのに可能な散居形式の集落を作った。扇状地は地下水が深く乾燥した土地であり、傾斜を利用して川から水を引き、潅漑用水や飲料水として利用すればどこにでも自由に居を構えることが可能であった。計画的な開拓とは異なり、農家の分布が不規則な散村が成立した。屋敷林に囲まれたどの農家も周囲の水田を耕すことが出来て、農作業に好都合である散居の集落形態は永らく持続が図られてきた。


2.散村の交通

 砺波平野のほぼ中心に位置し、散村の中心集落の一つである出町(砺波市街地)は、1649年(慶安2)に町立てされ、杉木新町とも呼ばれた町である。この町から放射状に周辺の町に伸びる道路がつくられたのは明治20年代である。1897年(明治30)には高岡から戸出・出町・福野を経て山麓の城端に至る中越鉄道(現JR城端線)が開通し物資の輸送が鉄道に代わるが、それまでは、砺波地方の産米や城端・福光・井波の絹、福野の木綿、出町の麻などは、扇状地を流れる川が利用され、小矢部川、庄川を通じて移出されていた。

 福野から井波・青島に通ずる加越線は1915年(大正4)に開通した。鉄道の開通は沿線の産業の近代化に大きな役割を果たした。1930年(昭和5)庄川の小牧発電所の稼働もあって井波町の呉羽紡績、福野町の富山紡績、出町に中越紡織など沿線の町の周辺に工場立地が相次いだ。その後、馬車やトラックの運行に備えて町を結ぶ主要道路の改修が徐々に進められたが、散村内部の道路は殆ど未改修のままであり、1945年(昭和20)頃の散村地帯の道路交通の状態はかなり悪かった。農家に通ずる宅道はせいぜい3尺(約1m)ほどで、荷車の通れる道は限られ、人馬がようやく通れるような道も多かった。村と村を結ぶ道も6尺(約1.8m)程の曲がりくねった道であった。

 耕地が家の周囲に集まっていることもあって農道の発達も遅れた。戦後、動力耕耘機やオ−ト三輪車の導入を機に農道の改修が一部で行なわれたのみで、交通事情の悪い状態はその後も続き、昭和30年代末から始まった大型圃場整備事業の進展と昭和40年代のモ−タリゼ−ションに対応した幹線道路の整備を待たねばならなかった。


3.大型圃場整備事業の実施とその影響

 日本農業の近代化を図る農業基本法が1961年(昭和36)に成立し、その翌年から砺波平野で農業構造改善事業の一環として大型圃場整備が開始された。その後県営圃場整備事業、団体営圃場整備事業として急速に進められ、1971年をピ−クとして、1976年頃までには散村地帯のほぼ全域で整備を終えた。大型水田を造成し、潅漑体系の改善を図った。
 この事業の実施によって散村の景観や農業、農家の暮らしは大きく変わった。新たに造成された30〜40aの大型水田には大型トラクタ−や田植機、コンバインなどの農業機械の導入が進み、農家の就労情況は大きく変わり、余剰労働力が他産業に向けられ農家の兼業化を一層促した(図1)。

図1 砺波市の専業兼業農家数の推移
図1
砺波市「統計となみ」により作成

 圃場整備事業に伴う最大の影響は、散村地帯の交通の変革であった。狭い曲がりくねった道は直線状に拡幅されて舗装され、農家に通じる宅道も自動車が通れる道に拡幅された。自転車やモ−タ−バイク、バスに依存していた散村の交通手段は一気に自家用車に代わり、通勤兼業の増加もあって自家用車の普及が急速に進んだ(図2)。また、圃場整備に伴う用水改修によって多くの畔は消滅し、コンクリ−ト化による地下水の低下や生態系変化など平野の自然環境への影響も大きかった。

図2 砺波市の自動車台数の推移
図2
砺波市「統計となみ」により作成



4.散村地帯への工場の進出

 先述のように砺波平野の中心集落(町)には、昭和30年代には既に多くの工場が立地していたが、その多くは鉄道沿線の町並みに隣接した場所であった。しかし道路が整備された圃場整備後は散村地帯へ工場が進出した。昭和41年の砺波平野の工業事業所数819、従業員数20,637名であったが、昭和50年には工場数は1,217、従業員数24,840名、昭和60年には工場数1,423、従業員数25,234名に増加したが、新しい工場の多くは町並みを離れた農村部の散村地帯に立地した。ことに従業員が100人以上の広い敷地を要する工場は、散村地帯の中でも比較的農家の少ない集落境の空閑地を選んで立地した例が多く見られた。この背景には、圃場整備後の農業の機械化による余剰労働力を吸収し、農村に雇用の場を創出しようとする農工一体化政策として1970年(昭和45)に制定された農村工業導入促進法があった。散村地帯への本格的な工場の進出は小矢部市水島の鈴木自動車工業が最初である。その後、福光町小林の三協アルミ、福野町本郷の三協アルミなどが進出した。

 砺波市について見ると、昭和33年の工場数が95、従業員数が2,089名であった。このうち従業員が100人以上の工場は、日本製麻が1,200名、中越印刷製紙が360名、中越レ−ス工業が170名の3工場のみで、いずれも市街地に隣接して立地していた。昭和40年代には松下電器、三越金属、帝国可鍛などの工場誘致が行なわれたがその立地は農村地帯であり、昭和50年代には太田工業団地、平成に入り若林工業団地、柳瀬工業導入地区、東般若工業導入地区に工場用地が造成され、松下電子工業、北陸コカコ−ラボトリングなどの多くの工場が立地し、平成12年(2000)の砺波市の工業は、事業所数271、従業員数5,318名、工業出荷額81,995億円であり、その工場の分布は図3のようであり、殆どが市街地を離れて立地している。

図3 砺波市の工場分布(2001年)
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5.散村景観の保全

 緑豊かな屋敷林に囲まれた家々が平野一面に点在する砺波平野の散村風景は、日本の稲作農村を代表する景観の一つとして広く知られてきた。しかし、その景観に1965年(昭和40)頃から変化が見られるようになった。その主なものは、圃場整備による変化や農家を取り巻く屋敷林の減少、工場・倉庫・住宅団地などの新たな建物の増加によるものである。中でも屋敷林の衰退と工場の進出は散村の景観を大きく変えつつある。

屋敷林にかこまれたアズマダチの民家  かつて、散村の農家はスギを主体とした森のような屋敷林に囲まれていた。屋敷林は、孤立した農家を守る大切な防風林であった。多くの樹木は冬の寒さや夏の暑さを和らげ、落葉や小枝は農家の大切な燃料となり、大切に育てられたスギ・アテ・ケヤキなどの木々は家の建築用材としても利用された。カキ・クリ・ウメなどの果樹や竹はどの家にも見られた。屋敷林の減少が目立つようになったのは、昭和30年代の中頃からである。家庭の燃料がガスや石油に代わり、家の外壁がアルミサッシやトタンに代わり、外材の輸入による木材価格の下落などもあって、屋敷林の効用に対する期待が次第に薄れ、やがて落葉の処理や枝打ちなどの手入れが大変なことから、伐採する農家が見られるようになり、散村内部の景観はもとより平野全体の散村景観に変化が見られるようになった。

 年々減少する屋敷林に注目し、屋敷林の自然の豊かさを探り、屋敷林と共に暮らした先人の知恵に学ぼうとする動きが1975年(昭和50)頃から一部に出始めた。1987年に砺波散村地域研究所の主催で「いま、屋敷林は」と題するシンポジュ−ムが開催されるなど、その後も幾度か新聞、テレビ等で屋敷林の自然の豊かさや保全育成について取り上げられたが、屋敷林は年々減少の一途をたどった。屋敷林の維持を、住む人の努力にのみ求めるには限界があった。1990年(平成2)富山県農地林務部による富山平野の屋敷林調査事業は、屋敷林の保全に行政が取り組んだ画期的なことであった。そして1999年(平成11)から始まった砺波平野の田園空間整備事業では、屋敷林の保全育成が大きく取り上げられている。

 景観とは、単なる風景ではなく、ある地域の土地の視覚的印象、景色の単位であり、自然と人間の織り成す現象の統合である。美しいとされる砺波平野の散村の景観は、水の豊かな扇状地の自然と、そこを開拓し永らく水田農業を営んできた村の歴史や屋敷林に囲まれた人々のくらし(文化的活動)のまとまりとしての景観である。この景観に変化をもたらした要因の一つが昭和40年代から散村地帯に立地した1,000余の工場である。工業団地に建ち並ぶ大きな工場、水田の中に建つ箱型の工場、屋敷林の囲まれた民家に接して建つ工場の姿は、従来の散村景観と異質のもので、視覚的な印象が異なるなど、美しい散村景観が次第に失われているが、その背景には、工場の建設に当たって何ら散村景観の保全が考慮されていないことがある。
散村地帯の工場
 散村景観の保全には様々な試みが必要である。先ず、既存の工業団地や工場の周辺の緑化が望まれる。緑化は散村景観の保全に必要であると共に、工場自体の緑の環境としても大切である。屋敷林に囲まれた民家とは対照的に、境界に接して剥出しの建物が建てられているのが現状である。また、工場の立地場所についても検討されなければならない。景観保全の観点から平野全体や村の内部、民家等を対象としてあるべき景観の姿が検討され、場所にふさわしい建物の高さや形、壁の色などが考慮されることが望まれる。
 厳しい農業情勢からして、地域の維持には産業構造の転換が不可欠であり、散村地帯への工場や住宅団地等の進出がさらに増えると予想される。景観の保全対策と新しい景観の創造に向けて総合的な対策が望まれる。


とやま経済月報
平成15年2月号