特集



東アジア経済に果たす環日本海地域の役割

富山国際大学地域学部助教授 高橋哲郎


はじめに

 東南アジア、そして中国を含む北東アジアからなる地域を一括して東アジアと呼ぶ言い方がますます一般化している。貿易、投資、金融などあらゆる面での経済関係の深化が新しい東アジア地域概念の成立の背景にある。実態面での経済的相互依存関係の深化により「東アジア経済圏」の制度化は明確に意識されはじめている(注1)。WTOを中心とした多角的貿易体制を通じて実現されることをベースとしつつも、地域や二国間での自由貿易協定(FTA)締結の動きが本格化してきた。
 本稿では、東アジアにおける経済関係の変化および深化を背景とした国家レベルの地域統合の動きと地域間の経済交流の現状をみることにより、環日本海地域の開発の意義と必要性を改めて確認したい。

(注1) 2003年版の『通商白書』や『ジェトロ貿易投資白書』では東アジアの範囲をASEAN+3(日中韓)に台湾・香港を加えた地域を想定している。


1.1980年代以降の東アジア経済と局地経済圏の生成

東アジア経済圏の形成
 この地域が経済発展を始めたのは1960年代以降である。60年代後半からNIESが成長を開始し、80年代後半からはASEAN、そして中国が発展を開始した。しかし、80年代後半からの発展構造は、それ以前とは異なるパターンを示している。
 従来の発展構造は、基本的に太平洋を挟んで米国を最大の製品輸出先とし、日本を資本財や部品の輸入先とするトライアングル構造での輸出主導型成長であった。同時に、それは大きく外資に依存する工業化・成長であった。それが、基本的構造の決定的変化ではないにしても、韓国では財閥が、台湾、香港、シンガポールなどでも財閥や中堅の地場企業が国際競争力を獲得して成長し、域内への直接投資をはじめた。
 日本の企業も日本から部品を輸出し、各国・地域で技術水準に応じてそれぞれ完成品を組み立てるという「製品差別化戦略」からアジア各国・地域の技術水準が上がるにつれ、部品の生産は日本からNIES、ASEANへと移転した。同一製品の工程を様々な国・地域が担当する「工程間分業戦略」へと進展してきた。その結果、ますます東アジア域内の投資および貿易が活発化し、工業製品貿易比率を高めている。現在では東アジア地域は世界の他地域と比べても最も貿易依存度が高い地域となっている[伊藤恵子 2003]。

局地経済圏の生成
 1980年代になると東西冷戦構造の解体により、国民国家の枠を越えた局地経済圏、あるいは地域経済圏への関心が急速に高まった。東アジア域内だけでも香港と広東省を中心とした華南経済圏、主に中国福建省と台湾を結ぶ両岸経済圏、シンガポール・マレーシアのジョホール州・インドネシアのリアウ州を結ぶ「成長の三角地帯」、そして中国吉林省・ロシア・北朝鮮にまたがる図們江(豆満江)下流域付近の開発計画(図們江地域開発)、さらにそれを拡大した環日本海経済圏などがある。
 名古屋大学の平川均教授はアジアの局地経済圏は2つのタイプに分類できると指摘している[平川 2003]。ひとつは自然発生的な「事実上起こっている局地経済圏」(de fact local economic zones)であり、もうひとつは関係国の中で周辺部の位置にあって比較的遅れた地方が国境を越えて互いに協力しようとする「戦略的局地経済圏構想」(strategic local economic zones)である。前者の経済圏の典型が華南経済圏、両岸経済圏、成長の三角地帯であり、後者の典型が図們江開発、環日本海経済圏であるとしている。
 特に図們江開発は戦略的意味が大きく、北朝鮮の国際社会への参入と発展の条件作り、そして中国内陸部(東北地方)の海へのアクセスを確保しようとするものであった。図們江開発のアイデアが登場してから10年が過ぎたが、この間の開発は当初の期待を大きく下回っている[(財)環日本海経済研究所 2003]。インフラ整備の所要資金の調達ができなかったことが開発を妨げてきた最大の要因である。「戦略的局地経済圏構想」は経済協力の資金を拠出する政策的枠組みが必要である。
 環日本海経済圏構想にも同様の問題があると考えられる。


2.進展するFTAの動き

GATT・WTO体制とFTA
 第二次世界大戦後、世界の貿易自由化は1948年に設立された国際機関、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)を主体に進められてきた。その中心となったのは多角的貿易交渉(ラウンド)であり、数次にわたるラウンドの開催は世界の関税率を大きく引き下げてきた。GATTは1995年にサービス貿易なども包括する世界貿易機構(WTO)に発展改組された。
 一方で、先進国を中心とする限られた国々で発足したGATT・WTO体制は、その後100カ国を超える規模に拡大した。加盟国数の増加と先進国と発展途上国の利害の対立は全会一致を原則とするラウンド方式の関税引き下げを困難にした。こうしたなかで90年代に入ると相互に関税の撤廃を認めるFTAをはじめとする、特定国間の経済統合の動きが加速されるようになった(注2)。
 かつてFTAは経済のブロック化を促し、GATT・WTO体制の障害になると考えられていた。しかし、グローバリゼーションの進展で、いかに二国間・地域間のFTAでも排他的な性格を持つことは不可能となった。しかもWTOと整合的なFTAのネットワークが広がれば、世界の貿易自由化にプラスの影響をもたらすとの認識が強まっている。
 世界のFTA締結件数は、2003年5月5日時点で合計151件に達し、以降も増勢傾向が続いている[ジェトロ 2003]。時期別では90年代後半に集中している。
 またFTAの内容も加盟国間の関税を撤廃する伝統的なものから、サービス貿易、直接投資、さらには労働移動まで含めた包括的な経済交流の拡大を目指す新たな類型のものに変容してきている。

(注2) その代表例が93年に欧州共同体(EC)から発展した欧州連合(EU)、94年にアメリカ、カナダ、メキシコなど3カ国が結成した北米自由貿易協定(NAFTA)である。アジアでは、東南アジア諸国連合[ASEAN]自由貿易協定(AFTA)が92年に発足しているが、現在までのところ期待通りの効果をあげていない。

アジア通貨危機とFTA
 1997年7月のタイ通貨バーツの暴落から始まった通貨危機は、東アジアに急激な経済危機を招いた。タイ、インドネシア、韓国はIMFの緊急融資を得るためにIMFのコンディショナリティ(融資条件)の受け入れを余儀なくされた。マクロ経済から金融、産業、企業に至るまで、広範な処方箋が盛られた。その狙いは自由化路線の推進であった。 しかし、このIMFの処方箋によっても危機の深化は止められず、98年に入って危機はますます深刻化した。通貨危機への対応は自らの責任において行うしかすべはなかった。歴史的に制度的協力関係を築けずにきたこの地域が、以後、地域協力の制度的枠組みを急速に発展させるのはこの通貨危機での経験も一因となっている。


3.活発化する日本のFTA交渉

シンガポールとのFTA
 シンガポールとの間では、2002年11月30日に「日・シンガポール新時代経済連携協定(JSEPA)」が結ばれた。日本初のFTAである。 JSEPAでは、関税の撤廃にとどまらず、知的財産権に関する協力等による貿易円滑化、サービス貿易や投資の自由化、電子商取引関連制度の調和、人の移動の円滑化等、幅広い分野をカバーしたものとなっている(注3)。

(注3) このため、FTAではなく経済連携協定(Economic Partnership Agreement = EPA)と呼ばれている。

 表1は日本のFTA交渉・検討状況を一覧表にしたものである。このなかで韓国とASEANとのFTA交渉の意義をみることにする。

日韓FTA
 ASEANへの取組みと並んで、日本が先行して取り組んでいるのは、韓国とのFTA締結に向けた取組みである。両国の産業構造は比較的類似し、産業のレベルも似通っていることから、両国市場の一体性を高めることにより、両国企業の国境を越えた競争・協力が進み、これが両国の経済構造改革を一層進展させ、両国の競争力を一層向上させることが期待される。また、日韓がFTAを通じて市場として一体化することは、欧米から見た日韓両国の「投資先」としての魅力をも増加させるという効果もある。

表1 日本のFTA交渉・検討状況


ASEANとのFTA
 日本−ASEAN間では、現在、二国間の取組みと日本−ASEAN全体の多国間の取組みをともに進めている。まずはいくつかの先行する二国間の協定の締結を進め、最終的には日本−ASEAN全体での経済連携を実現することを目標としている。以下の点がとりわけ重要である。
 第一に、ASEAN各国は、現在のように個々の国がセグメント化された状況では、市場としても生産拠点としても企業のグローバル戦略における重要な拠点となりにくいが、日本−ASEANがASEAN域内の障壁の撤廃も含めて障壁のない一つのエリアになることによって、重要な拠点になることが可能になる。
 第二に、日本−ASEAN間での取引は、既にいくつもの国を転々とするケース(工程間分業)が多いため、二国間のFTAや二国間の原産地規則によってはカバーすることが困難な取引が多く存在している。すなわち、ASEAN統合の進展によるASEAN域内における障壁の撤廃等、二国間のFTAではカバーすることが困難な分野が多く存在するという点に注目すべきである。
 第三に、ASEANをめぐっては、東アジアの中では中国(2004年6月末にFTA締結予定)が、それ以外ではインド(2005年6月末にFTA締結見込み)やオーストラリア・ニュージーランド(2002年9月に経済連携強化の協定に署名)、さらには米国(2003年秋に貿易投資円滑化の枠組み協定に署名の予定)が早期にFTAを締結することを模索しており、既にASEANが草刈り場となりつつある点を強く意識する必要がある。


4.地域レベルの経済交流の活発化

 最近、地方ごとに直接東アジア諸国・地域との交流を促進し、経済関係の強化を図る試みが見られるようになってきている。
 その代表的な例として、九州地域の取組みが挙げられる。北九州市では自治体(北九州市)と民間組織が中心となり韓国との産業・ビジネス交流を通じた戦略的な連携を進めている。仁川広域市、釜山広域市との間で、企業ミッションの相互派遣、各種セミナー、商談会の開催、国際見本市への相互参加、両地域間のビジネス促進を目的とした民間組織設立などを通じて、交流が活発化している。
 特に機械・金属、環境などの分野で戦略的な取り組みが進んでいる。北九州の主要製造業である機械、金属分野は、アジア諸国との熾烈な価格競争を背景に、韓国企業との生産委託、技術提携、販売業務提携などによる相互補完的な水平分業体制を目指している。北九州の中小企業の多くは多品種少量生産の生産方式であることから、大量生産に優位性を持つ中国企業ではなく、技術水準の高い韓国企業との連携がより現実的かつ効率的であるためである。
 ビジネスパートナーの発掘には相互の民間組織がもつ企業情報・ネットワークを有効活用している。2000年12月に北九州の機械、金属を中心とする中小企業約20社が中心となり設立した「北九州アジアビジネス推進会(KAB)」と2002年5月に釜山で設立した「釜山アジアビジネス協会(BAB)」が共同実施する商談会では、面談した企業同士の持つ企業(取引企業、関連企業等)情報やネットワークを互いに提供しあうことにより、より効果的なパートナーの選定が可能となっている[ジェトロ 2003]。


むすびにかえて−環日本海地域の開発の意義と必要性−

 世界的な地域統合の流れは国際競争力のある地域、都市、そして企業にますます有利な環境が作られることを意味する。このなかにおいて環日本海地域は潜在力の高さ(日中韓およびロシア極東のヒト・カネ・モノ)は人口に膾炙されているところであるが、厳しい環境下にあるといえよう。現状では「環日本海経済圏」としての実態は乏しく、すなわち国際競争力は決して高いとはいえない。しかし九州地域のように地域レベルの経済交流で活性化している地域もある。北陸地域においても地域間の経済交流が推進されている(注4)。
 また、環日本海地域は東アジアの政治的安定をはかる上で非常に重要な地域である。先に述べたように同地域は「戦略的」に「局地経済圏」を構想する必要がある。つまり、同地域の経済開発には自助努力にプラスして政策的支援が必要である。政府開発援助(ODA)の同地域への投入が検討される必要があるのではないだろうか。

(注4) 例えば、北陸・韓国経済交流会議(事務局:中部経済産業局)の開催、富山県の新世紀産業機構と韓国・大邱テクノパークとの交流協定締結などがある。また、ジェトロのLL(ローカル・トウ・ローカル)事業は地域間のビジネス交流を支援している事業として成果をあげている。

参考文献・資料
経済産業省[2003] 『2003年版 通商白書』
http://www.meti.go.jp/report/whitepaper/index.html
ジェトロ[2003] 『2003年版 ジェトロ貿易投資白書』
(財)環日本海経済
   研究所[2003]
『北東アジア経済白書』新潟日報事業社
今井宏他[2003]
『21世紀アジア経済』頸草書房
平川均 [2002]
「アジア通貨危機」『岩波講座 東南アジア史 9 −「開発」の時代と「模索」の時代』岩波書店
  [2003]
「東アジア地域協力の時代と北東アジア地域開発」『国際経済労働研究』   929号
浦田秀次郎・日本経済
研究センター編[2002]
『日本のFTA戦略』日本経済新聞社
伊藤恵子[2003] 「東アジア域内分業と日本の貿易パターンの変化」『日経研月報11月号』(財)日本経済研究所




とやま経済月報
平成15年12月号