富山市在住の一翻訳者の日々
新総合計画高度情報社会研究委員・翻訳家 近藤 三峰

はじめに

 パソコンの普及によって、作業工程が激変した職種は数多くあるが、翻訳業もその一つにあげられる。一口に翻訳といっても、書籍を訳す「出版翻訳」、主として企業や官公庁で発生するさまざまな文書を訳す「実務翻訳」、映画やテレビ番組の字幕や吹き替え台本を訳す「映像翻訳」に大別される。一般に最も広く認知されているのは出版翻訳だが、市場としては実務翻訳のほうが格段に広い。また、映像翻訳は、以前はほんの一握りの人がする仕事であったが、ケーブルテレビやCS放送の普及によって、仕事量も翻訳者も急増している。

 私が従事しているのは出版翻訳で、その中でもロマンス小説やミステリーなど、エンターテインメント系書籍の翻訳に携わっている。以前は、傍らに何冊も辞書を積み上げて机に向かい、開いた原書を見ながら、原稿用紙にひたすらペンで文字を連ねていく世界であった。それがパソコンの登場によってどう変わったか--。

翻訳作業の手順

(1)原文のテキスト化と訳文入力

 東京の出版社から宅配便で原書が到着する。通読したのち、スキャナを使って全ページをパソコンに取りこみ、文字認識ソフトにかけて、原文のテキストファイルを作成する。そのファイルをテキストエディタ(簡易な文章作成ソフト)で開き、原文の下に直接日本語訳を入力し、訳の終わった原文は消去していく。原文と訳文を同じ窓で扱うと、原書とディスプレイのあいだで視線を往復させるよりも、目の疲れがずっと少なくて済むし、うっかりの訳抜けが防止できる。

 パソコンを使って文を書くといえば、誰もがワープロソフトを思い浮かべるのではないかと思うが、私の場合、文章を書く作業ではすべて、動作が軽く、マクロで好きなようにカスタマイズできるテキストエディタを使っている。

(2)電子辞書の利用

 使用頻度の多い辞書類は、CD-ROMの形で販売されている電子辞書を購入し、そのデータをハードディスクに格納して使っている。主力の英和辞典の場合、翻訳作業中のテキストエディタ上で原文の英単語をダブルクリックするだけで、一瞬にして辞書ブラウザの窓が開き、意味を調べることができる。愛用の辞書ブラウザには、一度の操作で複数の辞書を参照できる「串刺し検索」という機能があり、実に重宝している。

 国語辞典、類語辞典、百科事典も必要に応じて参照するが、電子辞書は、何冊を開こうと書籍の辞書と違って場所をとらないし、何よりも様々な検索方法が容易にできて大変便利だ。「後方一致検索」などは、言葉の終わりの文字で探す機能で、例えば「正月」で後方一致検索をすると、雨降り正月、返り正月、旧正月、小正月、寝正月など、辞書に含まれている「正月で終わる言葉」がすべて探し出せる。これは紙の辞書では不可能な技である。

(3)インターネットで調べる

 翻訳は辞書さえあれば可能だと思われがちだが、じつは膨大な調べものが要求される仕事である。まだ辞書に記載されていない新語を調べたい、主人公が駆けまわる街の詳細な地図が見たい、原文中に出てくる映画の邦題は何か、唐突に登場する歴史上の人物名は何を象徴しているのか__そんな時に大活躍するのがインターネットだ。以前なら図書館や書店に足を運んだり、専門家に尋ねたりしないと分からなかったことが、いまは自宅にいながら誰の手も煩わせずにかなりの部分を調べられるようになった(もちろん、書籍資料や人脈は今でも必要不可欠である)。

 内容の充実したウェブサイトの数が飛躍的に増え、サーチエンジンの機能が向上し、通信費用が以前に比べてずいぶん安くなった今、インターネットでの調査は翻訳作業に欠かせないものとなっている。常時接続が可能なら、世界中で発信されている莫大な情報が、自分のハードディスクに入っているも同じである。

(4)推敲

 訳出作業が一段落すると、推敲にかかる。訳語が決まらず、マークをつけておいた箇所をテキストエディタ上で検索すれば、瞬時にその場所に飛べる。複数ファイルの横断検索も自由自在だ。AAという言葉をすべてBBに変えたい場合は、一括置換の機能を使う。

 訳文を最終的に見直す段階に来て、ワープロソフトが登場する。訳文のテキストファイルを開き、縦書きで見やすくレイアウトして印刷したものを、改めて頭から読んでいってペンでどんどん朱を入れる。それに従って訳文データも直していく。紙に印刷するのは手間がかかるが、ディスプレイで見ているだけでは気づかない点が見えてくるため、アナログ的であってもこの作業は欠かせない。

(5)納品

 そして、数カ月かけて完成させた訳文原稿を出版社に届ける運びとなるのだが、大抵は原稿のデータファイルをメールで送ってしまえば済む。原稿用紙数百枚分に及ぶデータでも、ものの数十秒で送信完了する。モノを輸送するための手間や暇がかからず、その時間を訳文の質の向上にあてることができ、つまり、その分締切が伸びたと同じことになる。

 このように、原文入手、訳文作成、調べもの、納品と、ほとんどの作業が、家から一歩も出ることなくパソコンの前に座ったままでできてしまう。もちろん、業務上の連絡も電話、ファックス、メールで事足りる。声は知っていても、顔を知らない編集者が何人もいる(といっても、機会があれば上京してお目にかかるようにはしているが)。モノの輸送が必要な場合でも、東京_富山は宅配便や郵便小包が翌日配達区域内であるため、随分助かっている。

夫婦同業

 実は、私の夫も翻訳者である。ときには科学書などノンフィクション系書籍の翻訳も手掛けるが、仕事の中心は医薬や生化学系の論文などを訳す実務翻訳だ。医薬翻訳者として名前を登録している複数の翻訳エージェントから、ほぼ間断なく仕事の依頼がある。最近では、わが家のホームページを見た個人や企業が直に依頼してくるケースも出てきた。

 一冊に数カ月かける出版翻訳とちがって、実務翻訳はタイムスパンが短い仕事が多い。今日依頼されて明日納品なんてこともよくある話だ。ものによっては誤訳が人命に関わることもあり、スピードとともに正確さが要求される。そして、いくら速くて内容が正確であっても、日本語として読みにくい翻訳は商品にならない。これまでの経験と知識とスキルを総動員して、読み手の立場を十分に考えた最高の訳文を作り上げる実務翻訳者は、ほとんど「職人」の世界である。

 夫はこの道20年になるベテランだ。分野はまるで違うけれど、仕事を始めてやっと3年の駆け出し翻訳者である私にとって、原文解釈や調べものをはじめ、パソコンの扱い方に関しても、かけがえのないアドバイザーである。仕事部屋が同じなので、一日24時間ほぼ一緒にいることとなり、よく「いやになりませんか?」と訊かれるが、お互いがそこにいるのが当たり前になっていて、特に気にならない。

オンラインコミュニケーション

(1)情報交換もパソコンで

 こうして家にこもって日々を送る私は、ずいぶん世間と没交渉のように見えるだろうが、実は全国各地の同業者や友人たちと毎日のように話をしている。@niftyにある「翻訳フォーラム」は、パソコン通信が主流だった時代から、全国(及び海外)に住む翻訳者や翻訳者志望の人々の交流と情報交換の場となっていて、テーマ別に分かれた「電子会議室」と呼ばれる場所が数十個あり、質疑応答や意見交換が活発に行われている。プロ翻訳者になりたくて勉強していた私が、まがりなりにも仕事ができるところまでこぎつけたのは、翻訳フォーラムで良きアドバイスをくれる先輩たちと知りあい、励ましあえる仲間を得たおかげだ(現在は、恩返しのつもりでフォーラムスタッフをやっている)。住む場所も、年齢も、性別も問わず、同じ興味を持つ人々と知りあえるのは、オンラインコミュニケーションの醍醐味である。

(2)深夜のチャット

 夜半過ぎ、翻訳フォーラムにアクセスすると、徹夜仕事で休憩中の翻訳者、翻訳勉強中の会社員や主婦、編集者や翻訳エージェントなど、いろいろな立場の人が全国から集まって「チャット」に興じている。新発売の電子辞書の情報や、今日の仕事で解決できなかった疑問など、翻訳にまつわる話はもちろん、毎日のできごとや旅行の話など、他愛のないおしゃべりも楽しむ。そうしているうちにチャット仲間のあいだで信頼関係ができあがり、時間がなくてこなせない仕事を融通しあったりするようになる。まったくの新人が初めての仕事を獲得する場合もある。仲良くなって結婚してしまう男女もいる。意図せず築いた人間関係が、長い目で見れば思わぬ人生の展開を呼びこむのである。

 パソコンを介して話をするなんて、ずいぶん非人間的だと思われるかもしれないが、オンラインであれ人と人とのつきあいということに変わりはない。オンラインで親しくなった仲間と実際に顔を合わせて話をするのがまた楽しい(「オフラインミーティング」、通称「オフ」と呼ばれる)。私にとって深夜のチャットは、友人との交流を深め、仕事の息抜きをする大切な時間である。

(3)地元の人々との交流_トランスネット富山

 夫の郷里である富山には、数年前に越してきた。私にとっては全くの見知らぬ地であったのだが、ちゃんと地元での友人知人もできた。それもパソコンのおかげである。ある日、翻訳フォーラムで知り合った一人の女性が、実は富山に住んでいることがわかった。その出会いがきっかけとなり、彼女が中心となって、富山在住の翻訳者・通訳者の交流を目的とする「トランスネット富山」が発足した。現在では30名近い人々が名を連ね、隔月で行われる交流会(これは直接会って話をする)で活発に情報交換がなされている。同じ地元で、同じような仕事をしている人々の話を聞くと、とても刺激になり、励まされる。

おわりに

 出版社や翻訳エージェントは大都市圏に集中しているのが現状だが、通信手段やインターネットの発達のおかげで、翻訳者は地方に住んでいても十分に仕事ができるようになった。仕事のやりとりという縦の線のみならず、同業者との交流という横の線も、パソコンと電話線があればしっかりとつながる。おいしい水や食べものに恵まれた富山で、家族とともに暮らしながら、自分の選んだ仕事に従事できるのはうれしいかぎりである。