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トップページ > 産業・しごと > 農林水産業 > 農山漁村 > 郷土を拓き,耕してきた偉人さん > 愛本新用水を開いた 伊東 彦四郎 さん
更新日:2021年2月24日
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宇奈月町愛本新一帯の「舟見野(ふなみの)」は雲雀野(ひばりの)ともいわれて、雲雀が巣をつくってすむような荒野でした。高台にあって水がないため、作物の栽培ができませんでした。そのため、彦四郎は「なんとかして、舟見野に水を引いて、農民の苦を救おう。」と決意し、水の取入口を設定するため黒部川をさかのぼりました。
計画ができても、この工事に要する費用が多額なため、加賀藩の援助をうけるしかないと、願いでました。幾度となく請願を重ねた結果、数年間に15万両(およそ3千万円)与えられることとなり、寛政8年(1796年)、試掘を始めました。
水路をつくる右岸は絶壁だったため、測量機械が発達していなかった当時、彦四郎は工夫をこらし提灯のあかりを用いました。夜、人夫を右岸の岩壁によじのぼらせ、彦四郎は対岸で、人夫たちの持った提灯の上げ下げを指図して、岩壁にしるしをつけさせて測量をすすめました。
このようにして、寛政10年(1798年)の雪どけを待って本工事にとりかかることになりました。水の取入口を音沢(いまの宇奈月町内)の南南東約1600mのところに定めました。ここから野中(のじゅう いまの入善町内)に至るまで、延長12キロにわたった用水路で、途中には隧道(ずいどう)をうがち、あるいは架樋(かけひ)を設けたりするため、工事はとても困難でした。
彦四郎の、前後5か年にわたる難工事は、享和2年(1802年)見事に完成し、黒部川の水が、用水路を流れました。
こうして、今までの荒野は黄金の波のうねる美田となり、12キロの用水は、愛本(いまの宇奈月町内)・舟見(いまの入善町内)・野中の1町2か村を潅漑して耕作田地379haに及び、農民が四方から集まって来て、多くの村をつくり、今日の繁栄をみるようになりました。
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