講座の目的

 ここでは、学校で子どもを上手に育てるための具体的なノウハウをお話しするのではなく、学校での子どもの育ちを、少し広い視野から考えてみたいと思います。

プロフィール

野平先生の写真

富山大学人間発達科学部助教授
1964年広島生まれ。
広島大学教育学部、広島大学大学院教育学研究科で教育学を学ぶ。
専門分野はドイツの教育哲学・教育思想史。
1998年教育学博士(広島大学)。
琉球大学教育学部講師、同助教授を経て、2002年4月より富山大学教育学部(現・人間発達科学部)助教授。
主な研究テーマは、コミュニケーションと人間形成、美と人間形成、教育の公共性など。
※プロフィールは講座開催当時のものです。

講座の内容

ピンのイラスト昔は学校で子どもを育てていなかった

みんなのイラスト 意外に思われるかもしれませんが、学校という場は、子どもを育てる場としては、かなり貧弱な力しかもっていません。
 そもそも、学校という場に子どもが一斉に通い始めたのは、日本では130年あまり、ヨーロッパでも、国によって違いますが、200年から250年あまりの歴史しかありません。
 それ以前、人類の歴史の非常に長い間、大部分の人々は地域で子育てをしていました。実の親子だけでなく、地域の人が皆、大きな家族のようなつながりのなかで、仕事(農業、手工業)や娯楽をともにしていました。子どもは、実の親だけでなく、周りのいろいろな人の一生の姿を直接に見ながら、自然に一人前になることができました。
 昔の生活がすべてよかったわけではありません。地域での閉ざされた暮らしのなかには、個人の自由やプライバシーはありませんでした。ただ、人が育つという観点からみると、地域の人々の有形無形の力があったことは事実です。

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ピンのイラスト学校での「育ち」の難しさ

学習公開のイラスト 今日の学校では、そのような豊かな人間関係、豊かな人間形成力は、残念ながら失われてしまいました。
 まず、学校には、働いている大人の姿がありません。工業化が進むにつれて、大人は工場に集められ、効率よく商品生産に従事させられるようになりました。同じように、子どもは、学校に集められ、効率よく学習に従事させられることになりました。学校は、塀のなかに子どもを囲い込み、大人のいないところで大人になる準備をさせることになったのです。
 学校には「先生」という大人がいるじゃないか、と言われるかもしれません。けれども、ほとんどの子どもにとって先生は、将来の自分の姿と重なりません。加えて、多くの教師は、企業や工場で働いた経験がありません。一般の人は教師の仕事について十分に知りませんが、同じように、教師も一般の人の仕事について十分に知りません。それにもかかわらず、大人の「代表」として子どもの前に立たなければならないのです。このように考えると、教師という職業が、非常に難しい職業であることがわかります。
 さらに、学校という場では、効率のよい学習が何よりも追求されます。そのため、子どもひとりひとりの能力や成長や関心とはほぼ無関係に、学年や学級が区切られ、時間で区切られた授業が行なわれます。マンガやお化粧などは、学習の妨げになるとして、持ち込みが禁止されます。残念ながら、生きた子どもの現実に学校が合わせることはあまりなく、学校に子どもを合わせようとする傾向があります。
 学校という場の人間形成力について、否定的な見方を多く書きました。しかし、学校を批判することが私の本意ではありません。このような学校の特色を、まず多くの人が知ることが何よりも大切だと思うのです。

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ピンのイラスト家庭での「育ち」の難しさ

家族のイラスト ついでに言えば、家庭での人間形成力も、以前に比べると貧弱になりました。地域の人々が家族同然の関係を取り結んでいた昔に比べ、今日の家族には、親−子の関係、きょうだいの関係しかありません。せいぜいそこに祖父母が加わるだけです。
 たしかに、今日の家庭では、以前に比べると、ある意味で親の思い通りの子育てができるようになっています。親は、他人から口を挟まれることなく、子どもの教育にお金と時間をかけることができます。親の教育意識は学歴に比例して高くなっています。
 けれども、教育意識の高さと、人間形成力の豊かさは同じではありません。数少ない人間関係のなかで、親が子どもに直接にしてやれることは限られています。今日の家庭のなかで、親が子どもに生きていくために必要な知恵や技術を教えていくことは、とても大変なことなのです。
 このように、学校も家庭も、人間関係や人間形成力の面では、実は決して十分とはいえないのです。それにもかかわらず、子どもが何か問題行動を起こすと、社会はすぐに学校(教師)や親の責任を問うのです。これほど理不尽なことはありません。
 子どもは、教師や親からの意図的な働きかけを受けて育つだけではありません。置かれた環境や周囲のさまざまな人間関係から、有形無形の影響を受けながら育ちます。あるいはまた、子ども自身の性格や意志も、その育ちに大きく影響します。学校と家庭での(あるいはせいぜい地域の活動での)大人の意図的なコントロールのもとでしか、子どもは育たないのだ、という考え方から私たちは抜け出す必要があります。コントロールされた育ちほど、子どもにとって息苦しいものはありません。 

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ピンのイラスト問題をどうみるか

先生と生徒のイラスト  子どもを育てる上での学校や家庭の問題点を書いてきました。繰り返しますが、教師や親を非難することが目的ではありません。今日の学校や家庭の限界を理解しないまま、親や教師を批判しても、何ら前向きな解決には結びつかないのです。
 困難な状況に悩みながらも、ほとんどの親や教師は、真剣に子どもと向き合い、奮闘しています。
 学校や家庭の力を補うものとして、行政や民間からの各種のサポート、自主的なサークルなどが提供されています。子どもがさまざまな人間関係を経験できるよう、これらの機会を上手に活かしていきたいものです。

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ピンのイラスト学校のメリット−多様性

喧嘩のイラスト  さて、学校には、家庭とは違う特徴があります。最大の特徴は、さまざまな生い立ち、さまざまな家庭環境をもった多くの子どもたちが集う場であるということです。自分と違う考え方に出会うことは、子どもを大きく成長させるきっかけになります。
 とはいえ、単に出会うだけでは意味がありません。自分と違う考えの持ち主に出会った時、「この子キライ!」といって関係を絶ってしまい、気の合う友達としか付き合わないのでは、子どもの成長にはつながりません。単にいろいろな考え方の子どもたちを一カ所に集めておけば、それだけで社会性や協調性が育まれるというものではないのです。
 そうはいっても、考え方の違う人と付き合うのは、大人でも大変なことです。ましてや子どものことですから(と言うと子どもに叱られるでしょうか)、すぐに喧嘩をしたり嫌いになったりするのも、当然と言えば当然です。
 大切なのは、違う考え方に出会った時の、大人によるサポートです。子どもの素直な気持ちを理解しつつ、同時に、「相手の立場」を予想し分かりやすく説明してあげることが大切になります。そうすることで子どもは、これまでの自分の考え方を安心して一歩広げることができるようになります。

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ピンのイラスト大人によるサポート

喧嘩のイラスト  その時に注意しなければならないことがいくつかあります。  ひとつは、「相手の立場」を理解することを子どもに強制しないことです。幼稚園や小学校低学年で、子どもたちが喧嘩をした時、先生が間に入り、両者の言い分を聞いた上で、「二人とも悪気はなかったのよ。はい、握手して仲直りしなさい」と仲裁している光景を目にすることが時々あります。けれども、本人の納得を無視して、大人の立場から、相手の考え方を理解するよう強制しても、子どもの考え方は広がりません。たとえ、表面的には相手と仲良くなったように見えても、それは見かけだけにとどまります。むしろ、自分の気持ちを理解してくれなかった大人に対する不信や反発が生じることにもなります。
 第二に、子どもが自分の考え方を広げ、相手の立場を納得し、成長していくには、時間と手間がかかるということです。それだけ大人には、我慢や寛容や懐の深さが求められるということです。大人の説明を一度聞いただけで子どもが納得することは、滅多にありません。同じような経験を何度も積み重ねながら、自分自身で納得していくのです。
 第三に、異なる考え方との出会いを、大人の都合で制限しないことです。大人(特に親)の立場からみて、我が子と付き合ってほしくないような友達(平気で人のおもちゃを壊したり、いじめたり、カツアゲしたり・・・)がいることもあるでしょう。けれども、だからといって、「あの子と遊んじゃダメ。この子と遊びなさい」と言って子どもの育ちをコントロールすることは、結局は子どもの自立を妨げる結果にしかなりません。繰り返しになりますが、経験の意味は最終的に子ども自身が納得し消化していくものであって、大人は理解者、助言者、そして後ろ盾の立場に立つことが必要です。

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ピンのイラスト学校と家庭の協力

授業のイラスト 家庭では、親は自分の子どもだけを見て生活します。それだけ我が子を深く理解することができます。もっとも、それは親という立場からの理解、言い換えれば主観的な理解です。
 これに対して学校では、教師は大勢の子どもを相手にします。学級という場や授業という場での付き合いでしかありませんから、家庭での親子関係に比べると浅く表面的な理解になってしまいます。けれども教師は、ひとりの子どもを、大勢の子どもたちとの関係のなかで理解することができます。つまりそれは、かなりの程度客観的な理解でもあるわけです。
 親と教師のどちらの子ども理解が正しいのでしょうか。答えは、どちらの理解も正しいのです。どちらか一方の見方だけが正しいということではありません。家庭での子どもの姿と、学校での子どもの姿は、同じとは限りません。家庭ではとてもおとなしいのに、学校で友達に囲まれると活発になる子どももたくさんいます。
 また、小学校高学年くらいになると、自分の本当の姿を親にも教師にも見せない子どもも増えてきます。そこでは、親の理解も教師の理解も、ともに正しくないのです。
 よく、「先生はうちの子どものことをよく見てくれていない」と教師を非難する保護者の声を聞きますが、親と教師の見方が違うのは自然なのです。大切なのは、だからといって親と教師がお互いを非難しあうことではなく、それぞれの見方を率直に伝え合うことです。相手の見方を聞くことで、親も教師も、子どもに対する自分の見方を広げることができるでしょう。要するに、親も教師も、ともに育ち合うことが大切なのです。家庭では教師批判を聞かされ、学校では忙しく疲れた教師の顔しか見えないような環境のなかで、子どもたちが安心して育つはずはありません。

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ピンのイラスト切磋琢磨と連帯の教育

校舎のイラスト 学校の活動の中心は授業、すなわち知的な面での人間形成です。しかし、それが子どもの育ちのすべてではありません。このことをもう一度よく考える必要があります。
 学力低下という批判を受けて、国は現在、再び学力獲得競争を推進する政策を進めています。都市部を中心に公立学校離れが進み、塾や私立学校が賑わっています。そこに通わせられるだけの財力のある社会階層と、そうでない階層の格差が拡大しています。
 けれども、そのような社会が、私たちの目指す社会なのでしょうか。勝ち組が負け組を相手にしない社会、それが私たちが後世に残したい社会なのでしょうか。親が我が子の幸せを願うのは自然の心情です。けれども、それが「我が子さえよければ」という考えにとどまっている時、そこから生まれる社会は、子ども自身にとっても不幸な社会です。努力が報われる(勝ち組になれる)ことは大切ですが、努力のチャンスさえ与えられず、親の財力だけで子どもの将来が規定される社会は、公正な社会とは言えません。
 教育には、子どもひとりひとりを育てる働きがありますが、同時に子どもたちの関係を育てていく働きもあります。上にも書いたように、学校という場は、さまざまな考え方の子どもが集う場です。考え方の違いのなかで、衝突や対立、切磋琢磨や競争を繰り返しながら、協調と連帯の力を育んでいける点が、学校の最大の特徴であり、メリットです。この点を社会全体で大切にしていきたいものです。

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先生からのコメント

私自身、2人の子ども(小学生)がいます。日ごろ、子どもの野生と家の中でつき合うのはたいへんな労力がいることだと思います。自分自身も日々振り返りながら、子どもたちと向き合っています。子どもたちの健やかな「育ち」を願って、お互いがんばりましょう。

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