古代<2>

りつりょうこっかとしょうえん
律令国家と荘園    back

 奈良の平城宮(へいじょうきゅう)や藤原宮(ふじわらきゅう)の発掘調査によって、これまでの歴史的な事実を覆すような多くの発見がなされています。
 奈良に平城宮、京都に平安宮がおかれた8世紀から11世紀にかけて富山平野には、中央の有力な貴族や寺社が支配した荘園が設けられました。井波町の高瀬(たかせ)遺跡と入善町のじょうべのま遺跡(いずれも国指定史跡)は8世紀のおわり頃から9世紀にかけての荘園を管理した荘所( しょうしょ)跡であり、中央に母屋(おもや)、両側に脇屋(わきや)という掘立柱建物をコの字状にもっています。いずれの遺跡においても荘所の近くに川が流れており、収穫物は船運によって中央へ運ばれたものと考えられます。
 また、地割りを示す条里は小矢部市の小矢部川左岸の平野部によく残されており、北反畝(きたたんせ)遺跡では掘立柱建物、溝、貯蔵穴や当時の農民の足跡などが発掘されています。


史跡公園として整備されたじょうべのま遺跡


北反畝遺跡の掘立柱建物

 

じょうべのま遺跡の遺構図と復元図

高瀬遺跡の遺構図と復元図

「条里」

土地の区画法で、地面を東西と南北に6町ごとに
碁盤目状に刻んだもの。畿内を中心として,各地
の沖積平野で水田,道路,用水などが整然と区画
されました。現在でも、一部の地域で、当時の地
割りが残っています。           

 

奈良時代

平安時代

 
 700  800   900  1,000   1,100   1,200
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