カモ親子の農村日記

古沢用水
ふるさわようすい
富山市

古沢は、呉羽丘陵の緩い傾斜地に広がる地域(約300ha)。丘陵側は畑や果樹地帯、北に続く旧扇状地は水田地帯となって射水平野に伸びています。今から400年ほど前まではわずかな戸数の集落が2ケ所あるのみで、当時は谷からの湧き水をため池に溜め、低地の水田で米を、山手で畑を作っていました。その後、古沢用水が開削され、一帯が豊かになったといわれています。現在の古沢用水は、山田川を水源とし、婦中町外輪野袋谷地先から取水した水は、山腹、段丘を蛇行して流下しています。

  


[作成:平成20年3月]
 


▲築留

「今から400年ほど前は、「古沢野」とよばれてたんだよ」
「へえ〜。野原だったの?」

「沢や沼が多くて、キツネやオオカミ、毒ヘビがいるような荒野だったんだ」
「こわっ」

「だろ?今の景色からは想像できないよ」



「あ!小学校の子どもたちが、見学に来てるよ」
「どうして用水ができたのか、どんな人たちが作ったのか、勉強してるんだ」
「ボクも知りた〜い」


子どもたちの用水見学

「古沢地区のお米がおいしいのは水のおかげ?」
「そうだよ、えらいえらい!」




「古沢用水の長さってどれくらい?」
「延長12.5kmだよ」

「流れもきれいだね」

「うん。毎秒1.6m3流れてるんだ」

友坂口
▲友坂口

古沢新明社
▲古沢新明社



土地改良広辞苑

【樋】ひ・とい

水を送り流すために、竹・木などで作った管。とい。


【段丘】だんきゅう

河岸や海岸または湖岸に沿って平坦面と急崖が階段状に配列している地形。


【取水口】しゅすいぐち

川などから用水路へ水を取り入れるための入り口。

私財を投じた古沢屋仁右衛門・牧野屋与四兵衛
 
 今から400年前の古沢は沢沼湿地が多く、狐狼や毒蛇のすむような荒野だったため、今から約340年前、小長沢出身の長兵衛によって婦中町各願寺前を流れる花水谷用水が作られました。これが、古沢用水の前身であると伝えられています。

 宝永2年(1705)富山町の古沢屋仁右衛門が殿様(富山藩主・前田正甫)の許可をもらって村を興し、その翌年からは用水開削と新田開発が並行して始められました。仁右衛門は私財で工事を進めましたが、予想外にお金がかかり、17年後の享保7年(1722)に藩の手でようやく完成しました。

 嘉永4年(1851)頃、山田川の大洪水により取水口一帯が被害を受け、上流の袋谷に新たな取水口が作られました。その後、古くなった古沢用水は、文久2年(1862)に堀替えられ、このときに力を尽くしたのが、牧野屋与四兵衛です。土地改良区では昭和58年に仁右衛門の碑を建立し、二人の偉業を後世に伝えています。
古沢屋仁右衛門之碑
▲古沢屋仁右衛門之碑


用水の開通で用水工事、最大の難関「築留」

古沢用水地図 古沢用水が辺呂川を横断するために築かれた盛土の堤(高さ17m、長さ約90m)は「築留」と呼ばれています。この土堤は藩によって作られたもので、用水工事では、ここが最大の難関でした。

 この土堤が築かれる数年前、上流に「掛樋」(木製の樋)が作られましたが、水もれがひどく、古沢へは水がわずかしか届きませんでした。この時、仁右衛門は、藩へお願いに行きました。莫大な費用がかかるので、土堤を築くことと、用水の修繕費をみることを藩でしてほしいと頼んだのです。藩はこの願いを聞き入れ、工事は3年、延べ1万人の人夫をかけて完成しました。土堤は近くの山を切り崩して盛土され、上流の山の長沢城跡の石垣の石が側面の土止めに使われています。


遺産を大切に受け継ぎ、未来へ

山田川取水門 受け継がれる人の生命とともに、生活の場も遺産として受け継がれますが、時代と共に移り変わり、価値観も変わります。また、農業も、近代化と農業離れの時代を歩み続けています。

 しかし、先人達が定着し、そしてやがて開通された用水は今日残された大きな遺産ではないでしょうか。私財を投じた先人、働いた人達の苦労を決して忘れてはなりません。

 現在は、古沢用水で毎年、小学校が用水見学会を行っており、用水を歩いたり、話を聞いたりして用水の役割や作った人達の苦労などを学んでいます。実際に用水を歩き、見ることでまたいろんなことが発見できます。用水がどこから来ているのか知らない人も多いのではないでしょうか。近くの用水などを調べてみるのもまた面白いかもしれません。