カモ親子の農村日記

埴生大池
はにゅうおおいけ
小矢部市

埴生大池は小矢部市街地から南西へ約7km。倶利伽羅峠から御坊山へと延びる稜線の南東側に広がる段丘地の中に位置する農業用ため池です。石川県境の倶利伽羅山麓を集水域に持ち、埴生地域一帯104haをかんがいしています。冬にはカモの仲間が飛来し、カイツブリやアオサギを年中見ることができます。また、山を隔てて一つ隣の谷には、1183年に源氏と平家の合戦場となった倶利伽羅峠があり、周辺は倶利伽羅県定公園に指定され、歴史のロマンが漂っています。

  

富山県小矢部市

[作成:平成19年9月]
 

昭和63年ころの様子
▲昭和63年頃の埴生大池堤体の様子。今では珍しい竪樋が見える

「このキレイな池が水害を起こしたなんて信じられないね」
「昔はね、池の堤が決壊したら、布団や土のうを入れて治めたそうだ」
「へえ〜」

現在の埴生大池
▲現在の埴生大池


火牛の計
「“火牛の計”って、なあに?」

「牛の角に燃え盛るタイマツをつけて山中に放ち、敵を混乱させて戦に勝つ…という作戦なのじゃ」
「すごいでござる」




「あっ! カモ発見」

「カイツブリやアオサギもいるね!」」

「みんな〜、一緒に泳ごうよ〜」



旧北陸道
▲旧北陸道:倶利伽羅合戦で源氏・平家が通り、加賀藩主も参勤交代で往復した街道




土地改良広辞苑

竪樋【たてひ】

ため池から取水するために設けられた縦型の木製の管。

数カ所ある穴より取水し、水を流した。

余水吐【よすいばき】

洪水などに備え、すみやかに水を放流する施設

「お万地蔵」に秘められた歴史
 
 養老2年(718年)に善無畏三蔵法師が倶利伽羅不動明王を祈願し、埴生の地に倶利伽羅不動寺を創設しました。その末社として、北陸道筋に毘沙門天をまつったといわれています。そのかたわらにあった池の水は五社谷へ流れて約3mの不動の滝となり、毘沙門川の清流となって埴生に流出していました。後に、この場所に埴生大池が築かれ、水田を潤したと言われています。

 また、言い伝えによると埴生大池は昔、別名「お万池」と呼ばれていたそうです。池の堤がたびたび決壊し、村人が困り果てていた時、綾子村の八十島家に能登から奉公していたお万という女中が人柱になることを申し出ました。現在、倶利伽羅不動寺にまつられている「お万地蔵」で、その言い伝えをしのぶことができます。


数々の歴史が刻まれたロマンの地

源義仲騎馬像 寿永2年(1183年)、信州の木曽山中で兵をあげた源義仲は、10万の兵を率いて京都から下った平維盛の軍と倶利伽羅山で対決しました。まさに埴生大池から山を隔てた一つ隣の谷で起こった合戦です。義仲は中国の故事による「火牛の計」を考え、5月11日の夜半、総勢4万余りで一斉攻撃を開始しました。ほら貝を吹き、太鼓を鳴らし、勝ちどきをあげながら、牛の角にたいまつをつけた「火牛」を放って攻撃。遠い京都からの移動に疲れ切っていた平家軍は、暗闇の中で右往左往するばかり。兵隊たちは軍馬もろとも地獄谷の底に落ちていきました。その数は1万8千余りであったと源平盛衰記に記されています。

 文政7年(1824年)3月、前田藩主が入国した際、埴生・蓮沼等集落の案内で旧跡をたずねた様子を描いた「倶利伽羅山中旧跡絵図」には、倶利伽羅不動寺周辺を水源とする「埴生大堤」の所在が明確に記されています。
源平倶利伽羅合戦図屏風
▲源平倶利伽羅合戦図屏風:石川県津幡町にある倶利伽羅神社で保存

平成の大修理でオアシスへ
 
 埴生大池は加賀藩時代から広範囲の水田を潤していましたが、何回も堤防が決壊していました。江戸時代には埴生護国八幡宮の石段の3段まで水が浸かるほどの大災害があったといわれています。

 これまで何度も改修や改築が進められてきた埴生大池ですが、相当の年数を経過していたため、農業用水の確保が難しくなり、平成元年から県営ため池等整備事業が進められました。堤防などを積み上げてため池を高くする工事や、古くなった竪樋を撤去して新たな取水施設を作ったほか、右岸側には余水吐を設けました。そして、堤高18.25m、堤長126m、満水面積4万1千m2、貯水量22万5千m3、総事業費3億4400万円余りをかけ、平成6年に完成しました。

 埴生大池は小矢部市で最も大きな農業用ため池として多くの水田を潤し、美しい景観を見せてくれています。周辺は歴史国道ふるさと歩道としても整備されているので、太古の歴史を思い浮かべながら、散策してみるのもおすすめです。※=土地改良広辞苑参照
埴生大池マップ