芹谷野用水
せりたにのようすい
高岡市・砺波市・射水市

庄川は岐阜県大野郡烏帽子岳に源を発し、山間から砺波平野、射水平野を経て日本海に注ぐ延長115kmの一級河川。上流の山間地には2m以上の積雪があり、雪解け水や集中豪雨で河川が氾濫する一方、少雨の時は干ばつとなって水争いが絶えませんでした。このため、先人たちは新たな用水を切り開いてダムを造り、共同で水資源を利用する知恵を生み出しました。現在の芹谷野用水は、旧庄川町金屋地内での合口ダム新設と左右両岸の用水路整備を中心とする庄川合口事業によって整備されたものです。

  

[作成:平成19年3月]
 

「ねえねえ、“十村役”って何するひと?」
「いくつもの村を治める村長さんと思えばいいよ。年貢を集めたり、荒地の再開発をしたりする仕事をしてたんだ」
「そっか。だから、農民のために立ち上がったんだね」


▲ふるさと中田発見教室

「用水の歴史のこと、もっと知りたいなあ」
「高岡市立中田図書館で小学4年生を対象にした“ふるさと発見教室”が開かれてるよ」
「へえ〜」

「芹谷野用水の役割やこれからのことをみんなで一緒に考えるんだ」
「ボクも行ってみたいなあ」




「十村役って、どれくらいえらいの?」
「農民の中でいちばん最高の地位にある人のことだよ」

「満開の桜、とってもキレイだね」

「初夏は、ホタルも飛ぶんだよ」

「ずーっときれいな用水を守りたいね」
「うん。ゴミをポイしちゃダメだぞ!」



「射水市にある、梅の木水路橋って知ってる?」
「すごい橋なの?」

「山のふもとを迂回しながら開発された昔の芹谷野用水を水路橋に架け替えたものなんだ」
「長さ200m、幅2m、深さ1mだって」
「文化遺産にしてもいいくらいスゴイんだぞ」


▲庄川合口ダム右岸取水口


▲庄川源流



土地改良広辞苑

十村【とむら】
加賀藩特有の職名で、他藩では「大庄屋」という役職にあたる。村落のなかでは農民の最高職。
河岸段丘【かがんだんきゅう】
浸食作用によって、もとの河床が現在の河床より高い台地になり、河川に沿って階段状になっている地形。

荒れ地に水を引いて新田開発を
 
■県道井栗谷・大門線沿いの砺波市三合から増山あたりは、かつて「芹谷野台地」と呼ばれていました。標高300mの丘陵地だったため、かんがい用水が得られず、近世の初めまで荒れ地のまま放置されていました。この台地に注目したのが、射水郡浅井郷島村(現射水市島)の十村役、折橋九郎兵衛です。
■彼は、芹谷野台地の開発にあわせ、下流の射水郡生源寺野まで水を引いて新田を開発するとともに、水不足に悩まされていた射水と砺波の両平野にも水を補給しようと考えました。当時、芹谷野台地を支配していた砺波郡戸出村(現高岡市戸出町)十村役の川合又八も、ちょうどこの地の開発に着目していたことから、両名の思惑が一致し、加賀藩に願い出て、寛文3年(1663)に用水路の開削が始まったのです。

▲川合又八


用水の開通で
新しい村が次々誕生

■新田開発の第一歩は導水路の開削でしたが、現在のような測量技術や機械がなかったため、提灯の明かりを頼りに河岸段丘の台地を迂回したり、橋を架けたりしながら工事が進められました。開削は庄川右岸の庄村(現砺波市庄川町庄)弁才天付近で庄川本流から直接取水するための工事から始まり、10年後の延宝元年(1673)に生源寺までの32kmが完成。芹谷野台地の名にちなんで「芹谷野用水」と命名されました。
■新田開発が進むと、周辺の村人たちは待ちかねたように芹谷野台地へと移り住みます。この頃、段丘下の砺波・射水平野では、現庄川の前身である千保川が毎年のように氾濫して洪水に見舞われていたからです。そして、新しく生まれ変わった芹谷野台地には、三谷新村、三合新村など、旧村名の下に「新」がついた24の新しい村が次々に誕生しました。


春は桜、初夏はホタルが舞う水辺
 
■その後、用水路は享保年間(1716〜1735)、現太田橋上流付近で新たに取水口を設けられました。庄川本流からの新しい取水口ができたことで、芹谷野用水は六ケ用水や針山口用水を含む庄東地区の基幹水路として徳川時代180年に加え、明治から昭和までの70年余りに渡って使命を果たすことになりました。
■しかし、炎天が続くと下流でかんがい用水が不足し、分水をめぐる水争いが起きたこともありましたが、昭和14年には取水口から安川地内までの用水路改修工事がスタートし、昭和18年に完成。昭和38年には県営かんがい排水事業が整備されました。
■芹谷野用水は、もともと農業用水として開発されましたが、現在は生きものたちのすみかとして、また消防用水、生活用排水など、さまざまな働きをして
います。特に春は桜が咲き誇り、初夏は川辺にホタルが舞うなど、豊かな自然環境をつくりあげています。