愛本新用水
あいもとしんようすい
入善町・黒部市

愛本新用水の主な水源は黒部川で、入善町舟見、黒部市宇奈月町愛本新など、約370haの水田を潤しています。黒部川右岸の急峻な山腹から平地を通る約10kmの水路が完成したのは、200年以上も前です。現在の取水口や水路ができあがるまでにはさまざまな移り変わりがありましたが、農家や地域の方々に安心して水を使ってもらえるように改修が進められ、今は使われていない昔の水路も先人の努力の跡として残されています。

  

[作成:平成18年9月]
 

「ねえねえ、“十村役”って何するひと?」
「いくつもの村を治める村長さんと思えばいいよ。年貢を集めたり、荒地の再開発をしたりする仕事をしてたんだ」
「そっか。だから、農民のために立ち上がったんだね」

▲集落内を流れる水路
 水力発電にも使われています
 (下は昔の水路)

「用水路の水は発電所でも使われてるんだって!」
「今も、暮らしの役に立ってるんだよ」
「大切に使いたいね」


▲大きな手づくりの短冊飾りが町を彩る七夕祭り


▲この田園風景も、用水のおかげです

「なんてキレイな、水なんだろ」

「さすがは清流・黒部川の水だね」
「やっほ〜。気持ちい〜い」


▲「用水宮」として親しまれている天満宮


▲勇壮なたいまつ祭り

「“たいまつ祭り”のたいまつって大きいの?」
「ワラや竹で作られていて、長さは8m、重さは450kg!」
「重くて持てないよ〜」

「村の若者たちが天満宮までかつぐんだよ。かっこいいね」


▲黒部川右岸音沢集落上流の、昔の取水口(昭和初期)

提灯を使った意外な工夫とは!?
 
■舟見野は、黒部川から見ると段丘の上にある台地。常に水不足で稲作はできず、植えたイモが収穫時の秋を迎える頃には堅い石ころのようになるといわれた荒地で、農民たちはとても苦労していました。
■これを救おうと立ち上がったのが、十村役の伊東彦四郎です。彼は長い間、加賀藩に用水開削を請願し続け、寛政8年(1796)、ようやく11代藩主・前田治脩から財政援助を得て工事にとりかかることになりました。しかし、水路をつくる右岸は断崖絶壁。今のような測量機械もありません。彦四郎は工夫をこらして提灯の灯りを利用しました。夜、岩壁に登った人夫に、対岸から提灯の上げ下げを指図して、岸壁に印をつけさせて測量を進めたのです。このようにして寛政10年(1798)本工事に取りかかり、難工事の末、享和2年(1802)に念願だった水路が完成しました。
 

水を迎えに行った農民たち
  
■水路の完成で、舟見野台地には外の村からも農民が移住してきて田の開墾が進みました。また、宿場町でもあったので、水は商売や住民の暮らしにも潤いを与えることになったのです。
■水路の完成は、当時の人々にとって大変な喜びでした。初めて黒部川から水を入れた時、日が暮れてもなかなか流れて来ない水が待ちきれず、農民たちは手に手にたいまつを持って上流まで水を迎えに行ったといわれています。この喜びの気持ちを後世に伝えようと、用水宮(天満宮)が建てられ、今も秋(10月5日)に大たいまつを奉納するお祭りが行われています。また、宿場町の人々は、七夕に短冊を飾って前田家参勤交代行列の旅の疲れを癒したといわれ、この祭りは今も続いています。毎年7月6・7日、大きな手づくりの短冊飾りが町並みを彩り、打ち上げられる約1000発の花火が山々にこだまして、まるで用水にお礼を言っているかのようです。
 

今も地域を潤している水
  
■改修が加えられ、活躍してきた水路も、200年近くたつと老朽化が進んだため、昭和54年から県営かんがい排水事業で、圧力隧道と管路の新しい水路建設工事が始まりました。水路の入口と出口の高低差は44mあり、水圧を減らすための弁が取り付けられました。その後、この事業で水力発電所建設が認められたので、減圧するもう一つの方法として発電機の設置を計画。国土交通省と経済産業省の認可を得て、平成元年に完成しました。発電機は昼夜を問わず働いています。
■先人の努力がこのような形で花開きました。用水の恩恵を受けている農民や地域の人々のためにも、水路を大切に守っていきたいものです。


土地改良広辞苑

隧道【ずいどう】
出口のある穴道のこと。トンネル。
開墾【かいこん】
山や野原を切り開いて田んぼや畑にすること
発電所