十二町潟
じゅうにちょうがた
氷見市

万葉歌人・大伴家持が「布施水海」と詠んだ十二町潟は、その昔、一面が現在の水郷公園のような大きな湖でした。しかし、雨が降るとたびたび洪水になり、周りの水田に大きな被害を与えていたので、古くから干拓事業が進められてきました。現在は、オニバスやイタセンパラなど国の天然記念物が生息する場所としても広く知られ、氷見市や地元の小学校などが協力して潟の自然を大切に保護しています。

 


   

[作成:平成17年9月]
▲オニバス

「オニバスって、どれくらい大きいの?」
「だいたい1〜2mくらいだけど、十二町潟では2・7mの記録があって、日本最大といわれているよ」
「でかっ!」


▼イタセンパラ(天然記念物、絶滅危惧種)



「イタセンパラって?」
「万尾川に古くからすんでいた魚で、タナゴの仲間だよ。大きさは7〜8㎝ぐらい。秋にイシガイなどの二枚貝に卵を産んで、冬の間はずっと貝の中で過ごして、春になると貝から出てくるんだよ」
「貝の中にいると安全だから?へえ、頭がいいなあ」

▼海抜が低いため、昔は何度も水害にあっていた


▼田舟を使った農作業の様子


▼ 潟を中心に広場や遊歩道が広がる


「湿田て、なあに?」

「1年中、水がなくならない田んぼのことだよ。だから、昔の農家の人たちは、腰まで水に浸かって田植えをしたり、田舟を使って農作業をしてたんだ」
「うわあ、大変だったんだね」

「そうだよ。だから、水はけの良い乾田になって、本当にうれしかったと思うよ」


土地改良広辞苑
潟【かた】
砂丘などで海から切り離されてできた湖や沼
排水機場 【はいすいきじょう】 洪水にならないように川の水を強制的に海へ流すためにつくられたポンプ場

潟の水が海水から淡水になった理由とは?

■縄文時代の中頃、近くの朝日貝塚から貝殻が多く出土していることから、十二町潟は海だったといわれています。その後、縄文時代の後期から海の水位が低くなって海岸線が現在より100〜200mも沖に退いていき、氷見砂丘は少しずつ大きくなっていきました。その時に十二町潟は海と離れ、潟の水が海水から淡水になっていきました。
■平安時代になると、海の水位が少しずつ上昇して、今と同じくらいになったのですが、土砂の堆積が少なかったので面積は相当広く、当時の人たちは魚を捕ったり舟遊びを楽しんだりしていました。万葉歌人・大伴家持が「布施水海
(ふせのみずうみ)」と歌を詠んだのも、このころです。それから1200年の間に仏生寺川(ぶっしょうじがわ)、神代川(こうじろがわ)、万尾川(もおがわ)による土砂に埋もれ、布施水海の面積もだんだん小さくなっていきました。
 

湿田から乾田への大変な苦労
 
■平安時代から江戸時代まで、十二町潟の水は現在の湊川から富山湾に流れていました。しかし、湊川は川幅が狭く、急カーブが2ケ所あったため、大雨が降ると洪水になり、周りの水田は大きな被害を受けていました。そこで、農民たちは新しい排水路を作るため、加賀藩に3度も頼みましたが、なかなか実現しません。十二町村の豪農・矢崎嘉十郎
(やざきかじゅうろう)が何度も願い出てやっと許可が出されました。そして明治元年、念願の新川を掘る工事が始まったのです。新川は上幅22m、下幅18m、深さ4m。当時は機械がないので、工事はすべて手作業で行われ、苦労のすえ、明治2年に完成しました。今のお金に換算すると約100億円の費用をかけた難工事でした。
■その後、明治19年までにおよそ120ha、昭和21年にはおよそ500haまで開田が進みました。昭和21年からは、国や県によって潮止め水門や排水機場の建設が行われ、よりいっそう乾田化が進みました。また、大きな排水機場ができたおかげで、元十二町潟だったところにも工場や家が建てられるようになりました。

 
天然記念物を大切に保護しよう
 
■現在の十二町潟は、細長く小さくなり、水郷公園として昔の姿を残し、天然記念物のオニバス生息地でも広く知られています。十二町潟では2.7mのオニバスが記録され、これまでの日本最大とされていますが、最近では60〜70cmぐらいにしか育たず、数も減ってきました。このため、地元の小学校や氷見市などで大切に保護されています。また平成元年の調査で、十二町潟に沿って流れる万尾川にも天然記念物のイタセンパラがすんでいることがわかりました。十二町潟には、ヒシやサンショウモなどのいろいろな水生植物、タイリクバラタナゴ、ナマズ、ドジョウなど、多くの魚たちも生息していることから、水郷公園や万尾川に住み良い場所を作って保護につとめています。

▲十二町潟水郷公園