〔古代〕

 大化の改新(645年)の頃、北陸地方一帯は越(高志、古志)の国とよばれていました。7世紀末、越前、越中、越後に3分され、越中国の政庁は高岡市伏木に置かれていました。大宝2年(702)に越中国に属していた頸城、魚沼など4郡が越後に移され、天平13年(741)に能登地方が越中に編入されました。越中 守で文献上、初めて登場するのは天平4年に任ぜられた田口年足で、次いで登場するのが天平18年に任ぜられた万葉の歌人大伴家持です。
 天平宝字元年(757)に越中国から能登地方が分かれて、越中は現在の富山県の県域と同じになりました。

 

〔中世〕

 武士の治乱興亡の時代に入り、源平時代には木曽義仲の倶利伽羅峠の戦い、戦国時代の一向一揆、上杉・織田両勢力の進入など幾多の争いが続きました。

 

〔近世〕

 天正11年(1583)に織田氏の武将佐々成政により越中がほぼ統一されました。その後、越中4郡(砺波・射水・婦負・新川)は加賀前田氏の領国となりましたが、寛永16年(1639)、婦負郡と新川郡の一部が富山藩に分封され、前田利次が初代藩主となりました。
 江戸時代には、水害との戦いに苦しみながらも用水を開き、土地の新田開発を進め、農業・売薬業をはじめ諸産業を興しました。また、伏木港や岩瀬港では北前船の中継地として、昆布、ニシン、酒、米などの交易が盛んに行われました。

  

〔近・現代〕

 明治4年(1871)の廃藩置県により、越中のうち旧富山藩領は富山県に、旧加賀藩領は金沢県の一部となりました。同年11月に富山県は新川郡、砺波郡を加えて新川県に改められ、県庁は魚津に置かれました。また、射水郡は七尾県に編入されましたが、明治5年には新川県に移され、越中全域が新川県となり、県庁は富山に置かれました。しかし、明治9年には越中全域が石川県に編入されました。
 このため、行政の主力を金沢中心の道路整備に置く加賀・能登側と、治水を急務とする越中側の意見が対立し、米沢紋三郎らによって分県運動が起こされ、明治16年5月に現在の富山県が生まれました。
 初代県令(のちに知事と改称)には国重正文が任ぜられ、県庁は旧富山城址に置かれました。7月に初の県会議員選挙が行われ、22名の議員により初代議長には武部尚志が選出されました。
 明治22年、市制・町村制が実施され、富山町と高岡町が市となり、2市31町238村が定まりました。
 昭和20年8月、空襲により富山市は壊滅的な被害を受けましたが、いち早く復興に取り組み、12月、戦災復興院告示第1号により都市計画事業を進めました。
 昭和22年、知事の公選が行われ、初代知事に舘哲二が当選し、官選35代知事羽根盛一が退任しました。
 その後、「昭和の大合併」により、市町村の合併が進み、昭和44年には現在の9市18町8村(35市町村)となりました。
 平成16年11月には砺波地方に2つの新しい市が誕生し、10市13町4村(27市町村)となります。
 また、環日本海時代を迎え、古くからの対岸諸国との交流の積み重ねをいかし、中国遼寧省、ロシア沿海地方と友好提携するなど、環日本海交流の中央拠点として活発な交流を展開しています。
 


歴史の名舞台
 

◆大伴家持と越中万葉◆

 大伴家持は、天平18年(746)に28歳で国守として越中の国府(現高岡市伏木)に着任し、5年間を越中で過ごしました。
 家持は歌人としても、『万葉集』の編者としてもよく知られています。約4,500首に及ぶ『万葉集』の中に、家持の歌は473首あり、そのうち越中在住中に詠まれたものは223首にのぼり、越中の山河、気候、動植物が多く詠まれています。
    あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の
        釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ
    物部の八十乙女らが汲みまごふ
        寺井の上の堅香子の花

 家持が国守としての任を終え越中を去るとき、次の歌を詠んで越中との別れを惜しみました。 
    しな離る越に五年住み住みて
        立ち別れまく惜しき夕かも


 県内には万葉に関する歌碑が100余り、『万葉集』の歌枕が約140語もあります。
 また、かつて家持が住んだ高岡市伏木の地には、「高岡市万葉歴史館」があります。ここでは『万葉集』と万葉の時代についての調査・研究が行われており、全国から研究者、愛好者が訪れています。

 

大伴家持像


 

◆立山信仰と開山伝説◆

 立山は富士山、白山と並ぶ日本三霊山の一つとされ、山岳信仰の聖地でした。 立山の開山縁起や伝承では、平安初期に越中の国司であった佐伯有若の子、有頼(慈興上人)が立山を開いたとされています。
 その当時、活煙をあげる立山の地獄谷は、天台宗修験者の修行の場所になっていました。『今昔 物語』などの説話集でもこの山を「地獄・極楽」と特徴づけ、ここに行けば「あの世」にいる亡者と会うことができるとされています。
 江戸時代には庶民の信仰の山となり、立山衆徒は立山の御札、縁起や立山曼荼羅(立山信仰を勧めるための絵解き用として描かれた絵画)を持って全国各地を回り、立山への登拝を勧めました。
 明治維新の神仏分離令(廃仏毀釈)は、1千年に及ぶ立山信仰の歴史を根底からくつがえし、立山権現の称号は廃止されました。
 信仰の山、立山は、現在、高山の清澄な空気と大自然の景観にあこがれる人たちのスポーツ登山、レクリエーション登山の地ともなっています。
 立山町芦峅寺にある「立山博物館」では、立山の自然と山岳信仰について知ることができ、調査・研究活動も行われています。

 

地獄谷

立山曼荼羅

 
 

◆奇襲戦法で決した倶利伽羅合戦◆

 源平の戦いのなかでも有名な倶利伽羅の合戦は、寿永2年(1183)に行われました。
 平清盛の死後、後白河法皇に味方する源氏の武士が各地で蜂起し、信州木曾谷で挙兵した木曽義仲の勢力は越中にも及んでいました。
 平氏は平維盛を総大将とする大軍を北陸道に送り、越前・加賀の源氏軍を破り越中・加賀国境の砺波山の麓に陣を敷きました。
 これに対する義仲軍は埴生(現小矢部市)の地に本陣を敷き、埴生八幡宮に戦勝を祈りました。
 義仲軍は夜を待って砺波山を越え、維盛軍を襲いました。このとき、角に松明を結わえた牛500頭余りを突入させる「火牛の計」で平氏の大軍を破ったと『源平盛衰記』に記されています。
 戦場となった倶利伽羅峠は富山県と石川県の県境にあります。平氏の軍勢が山から追い落とされ、相重なって谷底を埋めたといわれる深い谷々も、今では「源平ライン」が走り、春には八重桜が咲き、秋には紅葉の美しい行楽地となっています。

 

倶利伽羅合戦(倶利伽羅神社所蔵 石川県津幡町)

 
 

◆戦国武将、佐々成政◆

 天下統一をめざして上杉謙信、武田信玄、織田信長が対立していた時代、越中は本願寺を中心とする一向一揆衆が支配していました。本願寺は武田氏と結んで織田氏と対立したため、越中の国人(有力な地域の侍)も織田勢と戦いました。
 信玄の死後、本願寺は上杉氏と結んで織田氏と対立し続けました。織田氏の武将佐々成政は、このような状況のなか、天正8年(1580)越中平定の命を受けて派遣されたのです。
 成政は増山城、瑞泉寺、勝興寺、そしてついには富山城をも落とし、天正10年3月には、上杉方の拠点は魚津城と松倉城を残すのみとなりました。上杉方の重要拠点であった魚津城の攻防は2か月にも及ぶ激しいものでした。 
 越中を支配下においた成政は、富山城を本拠として治水にも力を注ぎ、常願寺川の馬瀬口(大山町)に石積みの堤防(現在の「佐々堤」と伝えられる)を築いて洪水から富山城下を守りました。
 信長の死後、豊臣秀吉の天下が固まりつつあるなかで、成政は遠江(現静岡県西部)の徳川家康と組んでこれに対抗しようとし、天正12年、厳冬の立山のざら峠を越えて浜松城に向かいました。しかし、盟約はならず、翌年には秀吉の軍門に下り、越中のうち新川郡のみの領有を認められました。
 その後、成政は肥後(現熊本県)一国を与えられ、越中を去りました。しかし肥後の統治は困難をきわめ、一揆が起こったため、成政は秀吉に切腹を命じられ、天正16年にその生涯を終えたのです。

 

〈早百合伝説〉

 成政の寵愛をうけていた早百合姫は、他の側室のねたみをかい、家臣と密通したと告げ口をされます。成政は激怒してその家臣を斬殺しました。ついで、早百合姫を捕らえ、神通川の一本榎に吊るし、めった斬りの斬殺に処しました。また早百合姫の一族すべてを皆殺しにしたのです。
 死ぬ間際に早百合姫は、「己成政此の身は此処に斬罪せらるるとも、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし」と叫んだそうです。天正16年に成政が切腹に追い込まれたのも、この早百合姫の怨恨のためであると「絵本太閤記」では語られています。

 

〈埋蔵金伝説〉

 秀吉の大軍に囲まれた佐々成政は、再挙をはかるため、百万両の小判を鍬崎山(標高2,090m)に埋めたと伝えられています。
 「朝日さす夕日輝く鍬崎に、七つむすび七むすび、黄金いっぱい、光かがやく」という歌には、財宝の隠し場所が暗示されているとされます。現在も、埋蔵金伝説にロマンを求める人は少なくないようです 。

 
 

売薬と昆布ロード

 富山市は昆布の消費量が日本で最も多い都市です。
 昆布の採集は、徳川幕府が蝦夷地(現北海道)経営に本格的に取り組む江戸後期に盛んになり、収穫された昆布は北前船で日本海の海岸沿いに運ばれてきました。
 富山藩では2代藩主前田正甫が殖産興業に力を注ぎ、さらに3代利興が藩札を発行して商品流通に努めるなか、売薬業が盛んになり、行商人が全国へ出かけていました。こうしたなかで、昆布の運搬と売薬業者のかかわりが生まれました。薩摩組と呼ばれた売薬業者は、北前船で昆布を北海道から薩摩(現鹿児島県)へ運んでいました。薩摩へ運ばれた昆布は、さらに琉球王国(現沖縄)に運ばれます。昆布は琉球から清国(現中国)へ輸出され、清国からは薬材が輸入されました。それが、薩摩藩を通じて当時製薬の中心地であった富山の製薬業者に売られました。この交易ルートを「昆布ロード」といいます。
 薩摩藩は貿易によって巨利を得、その財力が幕末動乱期の藩の政治活動を支え、明治維新へとつながりました。
 北の海に育った昆布と越中売薬は、日本の歴史を動かす大きな役割を果たしたことになります。

 

北前船

 
 

◆米騒動◆

 米どころといわれる富山県では明治期から米騒動がしばしば起こりました。富山米の安値に着目した商人が、米を買い占め、県外へ移出して巨利を占めようとしたためでした。
 大正7年(1918)には、政府がシベリアへの出兵を計画したことなどから、米穀商や地主による投機的な買い占め、売り惜しみで米価は前年の5割増しに跳ね上がりました。
 この年の7月18日から23日にかけて、北海道への米の積み出しのための輸送船「伊吹丸」が魚津町(現魚津市)に寄港していました。23日、折から米の高騰に苦しんでいた主婦たち数十人が汽船への米の積み出しをやめるよう町役場、米穀商や大地主へ嘆願運動をした結果、伊吹丸は米の積み出しを断念し出航しました。これが地元紙に「米は積ませぬ、魚津細民海岸に喧騒す」「いかなる暴動を惹起せんも計られず」などと、過激な表現で大きく報道されました。運動は各地に飛び火し、県内19市町村で40件以上の騒動に拡大しました。
 さらに騒動は全国に波及し、8月5日から19日までの民衆暴動は、全国368市町村(1道3府26県)に及びました。
 この騒動で、ときの寺内内閣は総辞職に追い込まれました。

 

富山県のあゆみ

縄文時代
・朝日貝塚(氷見市) 日本で最初に確認された竪穴式住居跡がある
・大境洞窟遺跡(氷見市) 縄文・弥生の各時代について、層位の新旧が確認
・桜町遺跡(小矢部市) 高床式建物の部材の発見
弥生時代
・江上遺跡群(上市)、石塚遺跡(高岡)など多数確認
古墳時代
・日本海側最大の前方後方墳である柳田布尾山古墳(氷見市)など、約600基の古墳が確認
<大化元年(645)大化の改新>
大化2年(646)
この頃、越の国と呼ばれる
斉明4年(658)
越国守安倍比羅夫、蝦夷を討つ
7世紀末
越の国を越前・越中・越後に3分
大宝2年(702)
越中国の4郡(頸城・魚沼など)を分け、越後国に属させる
<和銅3年(710)平城京遷都>
天平4年(732)
田口年足、越中守となる(越中国守の初見)
天平13年(741)
能登地方を越中に併合する
天平18年(746)
大伴家持、越中守となる
天平19年(747)
利波臣志留志、米3千碩を東大寺に寄進
天平宝字元年(757)
越中に属していた能登4郡(羽咋・能登・鳳至・珠洲)を分けて能登国とする(越中は現在の富山県の県域と同じになる)
<延暦13年(794)平安京遷都>
大同5年(810)
渤海国使首領の高多仏を越前国から越中国に移して、史生・習語生らに渤海語を習わせる
延喜5年(905)
越中守佐伯有若の記事あり
治暦元年(1065)
越中国司が荘園の停止を請う
寿永2年(1183)
倶利伽羅合戦に木曽義仲勝つ
<建久3年(1192)鎌倉幕府の成立>
承久2年(1220)
立山雄山神社の社殿造営
<暦応元年(1338)室町幕府の成立>
元中7年(1390)
本願寺5世綽如、井波に瑞泉寺を建立
<文正2年(1467)応仁の乱起こる>
元亀2年(1571)
上杉謙信が富山城を攻略
元亀3年(1572)
一向一揆勢が上杉謙信方と戦う
<天正元年(1573)室町幕府滅亡>
天正8年(1580)
佐々成政が越中に入る
天正10年(1582)
佐々成政が上杉方の魚津城・松倉城を攻略
<天正10年(1582)太閤検地開始>
天正11年(1583)
佐々成政ほぼ越中一円を平定
天正13年(1585)
佐々成政が羽柴秀吉に降参し、富山城をあけ渡す
天正15年(1587)
越中4郡(砺波・射水・婦負・新川)が前田氏の領国となる
慶長2年(1597)
加賀藩2代前田利長が守山城より富山城へ移る
<慶長8年(1603)江戸幕府の成立>
慶長14年(1609)
加賀藩2代前田利長が高岡城を築き移る
寛永16年(1639)
婦負郡と新川郡の一部をもって、加賀藩から富山10万石に分封、富山藩ができる(初代藩主 前田利次)
寛文3年(1663)
芹谷野用水工事始まる
元禄2年(1689)
越中売薬行商始まる
<享保元年(1716)享保の改革始まる>
安永2年(1773)
富山藩校広徳館開講(初代学頭 三浦瓶山)
<天明7年(1787)寛政の改革始まる>
享和3年(1803)
暦算家・測量家の石黒信由、北陸測量中の伊能忠敬に会う
文化13年(1816)
富山藩、反魂丹役所を置く
文政3年(1820)頃
北前船が多数登場するようになる
<天保12年(1841)天保の改革始まる>
天保14年(1843)
「長者丸」の次郎吉ら外国に漂流以来5年ぶりに帰国
<嘉永6年(1853)ペリー、浦賀に来航>
安政5年(1858)
立山の大鳶山が崩れ、常願寺川水域が大被害
<慶応3年(1867)大政奉還>
慶応4年(1868)
北陸道鎮撫軍、越中に入る
明治2年(1869)
ばんどり騒動起こる
明治4年(1871)
富山藩領が富山県に、金沢藩領が金沢県となる
新川・婦負・砺波の3郡が新川県となり、射水郡は七尾県に編入される
明治5年(1872)
射水郡を含む越中全域が新川県となる
明治9年(1876)
新川県が廃止され、越中全域が石川県に編入される
明治11年(1878)
明治天皇北陸巡幸
明治16年(1883)
太政官布告(5月9日付)により富山県が設置され、初代県令に国重正文が任ぜられる
初の県会議員選挙が行われ、初代議長に武部尚志が選出される
明治22年(1889)
市制・町村制の施行、富山、高岡の2市と31町238村となる
<明治27年(1894)日清戦争起こる>
明治31年(1898)
中越鉄道(現JR城端線)全通
官設北陸鉄道(現JR北陸本線)高岡に達する

明治32年(1899)
伏木港が開港場に指定される
北陸初の大久保発電所運転開始
<明治37年(1904)日露戦争起こる>
大正2年(1913)
北陸本線の全線開通
<大正3年(1914)第一次世界大戦に参戦>
大正7年(1918)
米騒動が全国に波及
大正13年(1924)
県立富山高等学校開校(旧制)
昭和2年(1927)
県海外移民協会設立
昭和3年(1928)
大日本人造肥料速星工場操業
<昭和6年(1931)満州事変起こる>
昭和8年(1933)
富山飛行場、倉垣に開場
昭和9年(1934)
高山本線の全線開通
昭和10年(1935)
富岩運河できる
現県庁舎完成
昭和11年(1936)
富山市で日満産業大博覧会開催
<昭和12年(1937)日中戦争起こる>
<昭和16年(1941)太平洋戦争始まる>
昭和20年(1945)
富山市が空襲を受け、焦土となる
<昭和20年(1945)終戦>
昭和22年(1947)
初の知事公選が行われ、初代知事に舘哲二が当選
昭和27年(1952)
全国に先がけて第一次富山県総合開発計画策定
昭和33年(1958)
第13回国民体育大会を富山県で開催
昭和38年(1963)
豪雪で大被害(38豪雪)、黒四ダム完成、富山空港開港
昭和39年(1964)
富山・高岡地区が新産業都市に指定
<昭和39年(1964)東京オリンピック開催>
昭和43年(1968)
公害防止条例制定、富山新港開港、厚生省がイタイイタイ病を公害病と認定
昭和46年(1971)
現県議会議事堂完成
立山黒部アルペンルート全線開通
昭和51年(1976)
国体冬季大会(おおやま国体)開催
昭和57年(1982)
第1回世界演劇祭(利賀フェスティバル)開催
昭和58年(1983)
富山県置県百年
昭和59年(1984)
富山新空港開港(ジェット機就航)
中国遼寧省と友好県省締結
昭和60年(1985)
ブラジルサンパウロ州と友好県州締結
総合雪対策条例制定
昭和62年(1987)
県の情報公開制度発足
昭和63年(1988)
北陸自動車道全線開通
平成3年(1991)
アメリカオレゴン州と友好県州締結
平成4年(1992)
第1回ジャパンエキスポ富山(エキスポとやま博)開催
ロシア連邦沿海地方と友好県地方締結
平成5年(1993)
初の国際線、ソウル便就航
平成6年(1994)
ウラジオストク便就航
平成7年(1995)
五箇山の合掌造り集落が世界遺産に登録
平成8年(1996)
第13回全国都市緑化とやまフェア開催
第11回国民文化祭とやま開催
平成9年(1997)
瑞龍寺が国宝(県内初)に指定
平成10年(1998)
富岩運河水閘施設(中島閘門)が重要文化財に指定
大連便就航
平成11年(1999)
NEAR21(北東アジア経済交流EXPO)開催
平成12年(2000)
第55回国民体育大会冬季・夏季・秋季大会の開催
平成13年(2001)
北陸新幹線(上越〜富山間)建設工事着工
富山県男女共同参画推進条例制定
平成14年(2002)
日中自治体友好交流会議開催
平成15年(2003)
ノーベル化学賞受賞の田中耕一氏へ名誉県民贈呈
平成16年(2004)
富山県大連事務所開設