関東における北陸人集落の繁栄
 
――近世末期移民門徒の現在――
三重大学人文学部 中川 正(地理学)


1.関東の北陸人集落

 私は大学院の修士課程にいた時代(1980〜1982年)に、関東に、越中、加賀、越後などから近世末期に移住した浄土真宗門徒たちの子孫によって構成されている集落がいくつもあることを知り、興味を持った。私の故郷である北陸、なかでも富山の文化が、現在の関東にどのように現れているのだろうかと思ったのである。
 彼らの子孫たちには浄土真宗門徒が多いということなので、私は茨城県と栃木県にある浄土真宗寺院80箇所に聞き取りを行った。その結果作成したものが第1図であるが、当時で少なくとも9,000戸の移民の子孫が存在することが確認できた。訪れた寺の住職に移民の子孫たちの特徴を聞くと、彼らはほとんど口をそろえて、「勤勉」、「進取の気性がある」、「まとまりがよい」、「信仰心が強い」と答えたのである。たとえば、経済活動だけを見ても、旭村のメロン栽培、八千代町のハクサイ栽培、北浦村のミツバ栽培などは、移民の子孫たちが中心となって導入し、発展させてきたという。また玉造町の移民集落、手賀新田(てがしんでん)は、霞ヶ浦でも最大のコイの養殖集落となっている。さらに、それぞれの地域で経済的に有力な人には、移民の子孫が多いという。私は、それらが本当なのか、また本当だとすればその実態はどうなっているのか、歴史的にどう変遷してきたのかを調べたいと思い、霞ヶ浦の移民集落である手賀新田(77戸)を調査することにした。そのときに、手賀新田を隣接する在来集落である舟津(77戸)と比較することにした。

2.移住の経緯

 手賀新田の検討を行う前に、近世末期にどのようにして北陸から関東への移民が行われたかについて、五来 重(1950)の研究をもとに概略を述べておこう。五来によると、一連の移住は封建制度が崩れてきた近世末期の農村の困窮化を背景としている。近世末期の北関東では、生活に困窮する農民たちは江戸へ逃散したり、口減らしのために嬰児を殺す間引きが行なわれたりした。その結果、北関東の諸藩や代官領では年貢が著しく減少した。これに対して、移民を最初に送り出した加賀藩の農民たちは、浄土真宗への帰依が強く、間引きを畜生にも劣る罪悪として拒んだために、人口増加が著しかった。また、近くに逃散するような大都市を持たなかったために、相対的な土地不足が進行し、農民の窮乏は著しくなった。

 このような土地不足に悩む北陸から、耕作放棄地が増加した北関東への移住を最初に導いたのは、北関東の浄土真宗の僧侶であった。関東は親鸞が浄土真宗の布教を開始した地であり、親鸞ゆかりの遺跡も多いが、江戸時代には衰退していた。そのような中で笠間藩領にある西念寺の住職良水は、北陸への勧化のおりに、北陸農民の浄土真宗の帰依と人口過剰の状況を知って、北陸農民の移植による教勢再興を企て、財政再建を願う藩主の支持を得て、1793年(寛政5)から1804(文化元)までに60余戸の農民を藩領に入植させたのである。この初期の入植以来、北関東の他の真宗寺院や藩主、代官たちは次々と、加賀、能登、越中、越後から入百姓政策を採用した。
 手賀新田へは、1805年(文化2)に野原氏(現在33戸)の祖先が現在の利賀村北豆谷から、理崎氏(現在25戸)の祖先が城端町理休から移住したとされている。その際に、人口維持政策に苦慮していた麻生藩が、藩主新庄氏と親戚関係にあった浄土真宗の無量寿寺と結んで農民移住を行ったとも言われている(植田,1975)。彼らは。周辺集落の有力農民に一旦身を寄せてから、湖岸に残されていた荒地の開墾を進めていった。彼らは100メートル間隔に農道を作り、開墾予定地の中央に住居を作った(野原,1956)。このようにして生まれた集落は、砺波の景観に類似した散村であり、霞ヶ浦湖岸低地ではきわめて珍しいものとなっている(第2図)。

3.貧しさから豊かさへ

 19世紀初期に手賀新田に入植した農民たちは、最初の半世紀間には、周囲の集落よりもはるかに貧しかった。安政年間の宗門人別帳から判断すると、隣の在来集落である舟津を含む持福院(天台宗)檀家の1戸あたりの石高は6.3石であったのに対して、手賀新田では2.8石と、半分にも至らなかった(第1表)。手賀新田では、無高の世帯が全体の4割にも達していたことは注目される。

 また、手賀新田の農民たちはよそ者として、在来の住民からは差別を受けることがあった。移民との結婚に在来の住民が抵抗感を持ち、手賀新田の住民は、集落内または他の移民集落との間で婚姻関係を結ぶことが多かった。この傾向は私が調査した1980年前後までにも継続しており、1958年から1980年までの23年間において、手賀新田の通婚圏は浄土真宗門徒の多い台地上の集落から配偶者を選んでいる(第3図)。これは、比較的人口の多い湖岸低地の集落の人々と婚姻関係を結ぶ舟津のパターンとは際立った対照を示している。

 貧しい手賀新田の農民たちを支えたのは、浄土真宗に対する信仰を核とする団結であった。彼らは1823年(文政6)に集落の中央に浄土真宗寺院豊安寺を勧請し、また「籾寄せ」と呼ばれる相互扶助組織を作り、毎年稲の収穫後に各農家が籾俵を持ち寄り、病気や災害で苦しむ農家に5斗俵につき6升の年利で貸し付けていた。

 手賀新田の経済力は着実に向上し、次の半世紀足らずの間に、舟津をしのぐほどになった。1896年における両集落の世帯の地方税納入等級から推定すると、舟津の1戸あたりの地方税納入額は18.9銭であったのに対し、手賀新田の1戸あたりの納入額は26.3銭と、実に1.4倍となっていた。その等級別世帯分布を示した第2表からも、19世紀末の手賀新田が、裕福な農家の割合が高く、かつ貧困世帯が少ない集落であったことがうかがえる。

 このような経済的な成長を導いたのは移民たちの勤勉さだと地元の人々は語っている。その勤勉さは、時代の流れをいち早くつかもうとする進取の気性と、それをいちはやく実践するという行動力に現れている。その一端が、漁業の導入とその拡大に現れている。

 当初手賀新田の経済活動は、水稲作を中心としていたが、未開拓地が少なくなるにつれて、舟津の漁家に見習いをして漁業技術を習得した後、湖岸に分家する世帯が出現してきた。漁業を兼業する農家が最初に現れたのは1873年であるが、その数は20世紀になり急増した(第3表)。1901年から60年までに集落内に分家をした55戸のうち30戸が漁業を営んでいる。彼らの漁業は、霞ヶ浦湖岸の他の集落よりも集約的で、急速な発展を遂げた。たとえば、1938年には、集落内の船大工が動力船を製作し、その動力船で帆曳き舟を風上まで運ぶことによって、従来1晩に1回しかできなかったワカサギ漁を2回できるようにした。その後の動力船の普及も早く、1951年における手賀新田の動力船数は19艘で、2艘の舟津よりも格段に多かった。手賀新田の漁獲高は高く、1951年において、霞ヶ浦沿岸にある漁業協同組合40のうち、最高の漁獲高をあげていた手賀村漁業協同組合の、実に75%を占めていた。


4.高度経済成長と養殖漁業の発展

 調査した1981年現在で、手賀新田は霞ヶ浦最大のコイの養殖漁業集落であった。前掲の第2図にも見られるように、集落の南西部一帯には養魚池が広がり、また湖岸から700メートル沖合には、湖岸から垂直に30面から130面にわたって網いけすが細長く連なっている。このような景観は、高度経済成長期において、手賀新田の住民たちが新しい経済機会に対して果敢に挑戦していく過程で形成されたものである。

 1964年に、手賀新田を含む12の霞ヶ浦沿岸集落が、養殖漁業モデル地区に指定された。国の補助金を得て、手賀新田では4戸の漁家が16面の網いけすを用いてコイ養殖に着手した。翌年には集落内に霞ヶ浦北浦小割式養殖漁業組合が設立された。同組合の記録によると、コイ養殖に従事する漁家は、1966年に10戸、1968年に28戸へと急増した。1漁家あたりの網いけすの数も、1966年には5面、1968年には9面、1973年には29面へと増加していった。孵化を行い、稚魚を成長させるための養魚池は、1966年に出現し、1970年代初期に実施された国の減反政策のもとで、1反3万5千円の転作奨励金を受けて、多くの漁家が、すべての水田を養魚池に転換していった。1981年時点で、30戸すべての漁家が養殖漁業を行い、伝統的な漁業を継続している漁家は存在しなかった。コイの養殖漁家の中には、さまざまな関連する経営を組み合わせるものもあり、テラピアの養殖を行う世帯が13戸、コイの販売を自ら行う漁家が13戸存在する。

 これに対して舟津では、手賀新田よりも3年遅い1967年に4戸の漁家がコイの養殖を始めたが、そのうち3戸は養殖漁業に投資を続けることをあきらめ、1970年に経営を中止した。1981年時点において、1戸の漁家のみが養殖漁業を継続している。

 第4表は1981年時点における両集落の就業形態を示したものである。舟津の大多数の世帯が通勤を主とし、それに農業を補助的に組み合わせているのに対して、手賀新田の世帯の大多数は、農業、漁業、または自営業を専業的に行っている。通勤をしている世帯は3戸に過ぎない。すなわち、大多数の舟津の住民が比較的容易に得られる就業機会を集落外に求めているのに対して、手賀新田の住民は、養殖漁業や商業的農業をいち早く導入し、個人的な投資や政府の援助の積極的な利用によって急速に経営を拡大していったのである。

5.北陸人の経済行動

 手賀新田の例は、移民門徒集落の中でも顕著なものであるが、私が聞き取った範囲では、移民の子孫たちが勤勉で進取の気性をもつことは、ある程度の普遍性を持つように思われる。もちろん、現在の富山県の集落と、近世末期に富山から関東に移住してきた農民の作った集落には、共通性よりも差異の方が目立っている。たとえば、富山県は第二種兼業農家率が高いが、この手賀新田では専業農家や専業漁家が多い。しかし、その表面的現象の背後には、たしかに越中人気質とでもいうべきものがあるような気がした。新たな機会を捉えてチャレンジする精神、目的に向かって一致する団結心、勤勉に絶えず学ぶ姿勢などは、現在の富山県人の特徴そのものである。

 富山県人は地元よりも外で活躍するといわれている。しかし、他地域で成功したのは、立身出世話として語り継がれる有名人ばかりではない。近世末期に着の身着のままで移住をした貧しい越中の農民たちの子孫たちにも、その事例は存在するのである。

参考文献
植田敏雄.1975.麻生藩の人口政策(その2).麻生の文化,7,5〜13.
五来 重.1950.北陸門徒の関東移民.史林,33,597〜612.
野原小市郎.1979.『開拓百五十年記念祭』,3ページ.

なお、この研究は次の拙稿にまとめられている。
中川 正.1983.集落の性格形成における宗教の意義――霞ヶ浦東岸における二つの集落――.人文地理,35,97〜115.


平成14年4月号