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富岩運河の建設と利用の歴史

最終更新日:2016年1月6日

神通川の馳越線工事

神通川河道の変遷 明治期までの神通川は、富山市中心部で大きく蛇行して流れており、洪水時にはこの箇所でよくあふれていました。このため、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの提案を受け、明治34年(1901)〜36年(1903)、この蛇行している区間の西側にまっすぐな水路を建設し、川の流れを直線化する「馳越線(はせこしせん)工事」が行われました。いまの富山大橋から富山赤十字病院あたりの区間です。
 この工事は、川の中央に幅2m、深さ1.5mの細い水路を堀り、自然の力を利用し洪水のたびに少しずつ水路の幅を広げていくものでした。現在のように、完全に流れを移し替えたのは大正10年(1921)頃のことです。

富山都市計画事業と富岩運河

富山都市計画事業概要 神通川の馳越線工事の結果、元の神通川はわずかに松川を残すのみで、広大な廃川地が富山駅と市街地の間に横たわり、都市の発展に大きな障害となっていました。
 このため、東岩瀬港から富山駅北まで約5kmの運河を作り、運河を掘ったときの土砂で神通川の廃川地を埋め立て、新市街地を作る計画が作成されました。
 この運河は、富山市と当時の東岩瀬町の両市町をつなぐことにより「富岩運河(ふがんうんが)」と名付けられ、富山県ではじめて都市計画事業として、昭和5年(1930)から建設を行い、昭和10年(1935)に完成しました。かつての神通川の跡地は、現在、富山県庁、富山市役所、NHKなどが建ち並ぶ富山市の都心となっており、現在の松川・いたち川が、旧の川筋の一部として残っています。
 また、富岩運河の建設により、東岩瀬港と富山駅北が水路でつながり、舟による資材の運搬が非常に便利となり、運河沿岸は一大工業地帯を形成することになりました。

中島閘門と牛島閘門

中島閘門 富岩運河の河口から約3km付近に、上流と下流の水位差2.5mを調整するための施設、中島閘門(こうもん)が設置されています。
 この閘門は、富岩運河の建設にあわせて昭和9年(1934)に設置され、上流の工場へ原料を運ぶ船が運河を上り下りするのを助けました。
 また、富岩運河上流には、牛島閘門も設置され、上流の舟だまりといたち川とを連絡し、水位差約60cmを調整するとともに、洪水時のいたち川の放流口の役割を備えたものでした。

富岩運河の消滅の危機

昭和58年頃の富岩運河 昭和30年代から高度経済成長期になると、トラック輸送への交通手段の変化や周辺の宅地化により環境問題が厳しくなるなど、工業立地の優位性は低下し、周辺の工場では規模縮小や業種転換・撤退などが進み、運河本来の利用がされなくなりました。運河の水は汚れ、岸辺も草ぼうぼうの状態となり、昭和50年代には、運河を埋め立て、道路をつくる計画も作成されるなど、富岩運河は消滅の危機を迎えたのです。

よみがえる富岩運河

富岩運河環水公園と富山駅北地区 消滅の危機を迎えた富岩運河でしたが、物よりも心のゆとりや潤いが求められる時代を迎え、都市部の貴重な水面として見直され、昭和59年に、富岩運河は遺されることとなりました。
 そして、昭和60年以降、都市の水辺空間として再生を目指し、富岩運河環水公園の整備や「ポートルネッサンス21計画」による遊歩道などの環境整備、中島閘門や牛島閘門の復元工事が行われ、富岩運河は、親水空間としてよみがえったのです。

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