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広報紙「県広報とやま」(2013年1月号〜)

最終更新日:2017年10月8日

「県広報とやま」増刊号(置県130年特別号) vol.454

130年前の5月9日、富山県誕生 〜高志の国から越中、そして富山県へ〜

高志の国と呼ばれた時代

 古代、富山県を含む北陸地方一帯は、「越(こし)(高志)の国」と呼ばれていました。7世紀末に越前、越中、越後の3つに分かれ、越中の国府は、今の高岡市伏木に置かれました。越中守として初めて名が知られるのは、732年に任ぜられた田口年足(たぐちの としたり)です。746年には、万葉の歌人として知られる大伴家持(おおともの やかもち)が28歳で越中守となり、5年間を越中で過ごしました。
 757年、越中国から能登地方が分かれ、越中は今の富山県とほぼ同じ区域になりました。その後、戦国時代などを経て、1585年からは加賀前田家の支配下となり、1639年に旧婦負郡と新川郡の一部が「富山藩」として分けられ、前田利次が富山藩主となりました。

大伴家持像

大伴家持像

水との闘いから生まれた富山県

 明治維新の後、明治4年(1871年)の廃藩置県により全国に3府302県が設置されましたが、この時に設置された「富山県」は、旧富山藩領だけを区域とする小さなものでした。
 その後、富山県は新川県と改称され、明治5年には現在の富山県と同じ区域になりますが、明治9年、政府は全国を3府35県に集約する大併合を実施し、新川県は石川県と合併してしまいます。
 しかし、併合後の石川県会(現在の県議会に相当)では、多大な費用を必要とする治水事業をめぐって、越中選出の議員と加賀・能登選出の議員とが鋭く対立しました。住民の生命を守るための治水工事優先を求める越中側に対し、加賀・能登側は、道路建設を求めたのです。
 明治14年、政府の緊縮政策によって治水事業に対する国からの補助金が廃止されると、対立は頂点に達し、ついには県会の解散に至ります。
 こうした中、越中国内には分県独立を求める声が急速に高まり、入善の米沢紋三郎(よねざわ もんざぶろう)らは分県の建白書を太政官に提出。政府高官と面談し、分県を直接訴えました。米沢らの分県運動が実を結び、明治16年(1883年)5月9日、太政官は富山県を設置する布告を公布。ここに、現在に至る富山県が誕生しました。

米沢紋三郎と建白書の写し
米沢紋三郎と建白書の写し

富山県設置を決めた太政官通達書(富山県公文書館所蔵)
富山県設置を決めた太政官通達書(富山県公文書館所蔵)

富山県成立までの変遷○富山県成立までの変遷

明治4年7月14日 (廃藩置県)富山藩がそのまま県になる

明治5年9月27日 新川県、現在と同じ区域になる

明治9年4月18日 石川県に併合される

明治16年5月9日 富山県設置

置県130年を記念し、毎年5月9日を「県民ふるさとの日」と定めました。

【 情報発信元 】
経営管理部 広報課 広報係 電話:076-444-3134  [ お問い合わせフォーム
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