立山信仰の舞台-第1展示室-

1.ブナの森へ

ブナの森で・・・・・・
ブナの森は「豊かな森だ」とよく言われます。それは1つにはブナの森には生き物がたくさん住んでいるということ、2つめには、ブナの森には人のくらしに利用できるものがたくさんあるということなのです。ブナの森にはいろいろな木や草、鳥やけもの、虫が住んでいます。博物館の模型に作ることが出来たのは、森全体のほんの一部です。その中には25種類の草や木、3種類の鳥、2種類のけものを展示しています。 

ブナの森から・・・・・・
2つめの人のくらしに利用できるものがたくさんあるということですが、何がどのように利用されたのか、例を見てみましょう。人々のくらしの中で輪?は、狩りや春先の山仕事などにはなくてはならない、雪の上を歩くための道具−かんじき−です。博物館のある芦峅寺では 枠はオオバクロモジ、爪はイタヤカエデの木材作られていました。ブナの材木−(ぶなざい)−は、お椀、木鉢などの器や杓子など日常生活に欠かせない用具を作る材料としてたくさん使われました。東北地方にはブナ材を利用した建築物が今も残っています。ブナの森は人の暮らしと深く結びついていたのです。

ブナの森は・・・・・
しかし,私達の身のまわりにブナの森の材料を使って作られたものは余り見あたりません。それではブナの森はもう私達の生活に何の関係もなくなってしまったのでしょうか。・・・・そうではありません。ブナの森は大気や水をとおして、今も私達の生活に深く結びついているのです。ブナの森に降った雨や雪は、森の植物たちに一度受け止められます。そして雫や、木の幹を伝う小さな流れとなって森の土へとしみこんでいきます。水はこの土のなかをとてもゆっくりとくぐり抜け、長い時間をかけて少しずつ森の外へと流れ出していくのです。
また水の一部は植物の表面から、あるいは植物の体内を通って大気へと帰っていきます。ですから森は大きな湖のように、たくさんの水を蓄えているのだと考えることができるのです。

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2.人のくらしと大地

立山からの恵み
立山一帯は雨がたくさん降ることでは、日本でも指折りの地域です。例えば高さ2450mの室堂では、1年間に6000o以上もの雨が降ります。この雨が、常願寺川をはじめ多くの河川の豊富な流れとなって、農業用水、工業用水、生活用水、そして発電にといろいろな場面で私達に恵みを与えてくれているのです。

洪水を防ぐ工夫
いつもは穏やかに流れているように見える常願寺川も、いったん大雨が降ると恐ろしい濁流となって一気に流れ下ります。そしてしばしば氾濫して大きな被害をもたらしました。常願寺川は日本で一、二の暴れ川だったのです。この洪水を防ぐため、「かすみ堤」「用水の合口化」などいろいろな工夫がなされてきました。また常願寺川では明治39年から今日まで、上流部を中心に砂防ダム工事が続けられています。今では洪水による被害は滅多に起きません。これは昔から続けられている自然の猛威との戦いのおかげなのです。

安政の大地震
1858年、安政5年2月26日(旧暦)の早朝、飛騨北部から越中にかけて大地震が発生しました。この地震によって、富山城の石垣や門などが壊れ、地面が裂けて水が噴き出したほか、各地で家屋が潰れ地割れが生じるなど大きな被害のあったことが記録されています。この地震は一般に、安政地震、富山では越中大地震と呼ばれ、マグニチュードは7と推定されています。被害はこれだけではありませんでした。この地震によって常願寺川上流の大鳶・小鳶山に山崩れが起こり、支流の湯川と真川がせきとめられて大きな湖が2つできました。ところが2週間後に湯川のダムが、1ヶ月後に真川のダムがあいついで壊れました。溜まっていた水は濁流となって一気に常願寺川へさらに神通川、白岩川にも流れ込み、下流の村々は大洪水に見舞われました。被害は流されたり壊れた家1612戸、溺死者140人にも及びました。濁流の勢いはすさまじく、巨大な石がいくつも常願寺川沿いに運ばれました。これらの岩は大転石と呼ばれ、中には供養塔や水神碑の土台になっているものもあります。

跡津川断層
安政の大地震を引き起こしたのは、跡津川断層の活動です。断層とは大地に大きな力がかかり、それに耐えきれなくなった大地にできる裂け目のことです。最近の研究では千数百年に一度の間隔で、巨大な力のために突然1〜数mずれ、その時大きな地震を起こすと考えられています。跡津川断層の様に今後も活動する可能性がある断層を「活断層」と呼び、富山県内にもたくさん見つかっています。ところで、「真川第四砂防ダム」建設工事にともなって、見事な跡津川断層があらわれました。立山博物館にある「断層剥取り展示」は、このあとを特殊な接着剤を使って剥ぎ取ったものです。

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3.秀峰立山

水・雪・氷による浸食
立山に降った雨は急流となって山を削り、深い谷を作ります。黒部峡谷や称名峡谷などがそれです。落差日本一の称名滝は元々立山駅付近にあったものが断崖を削って少しずつ上流へ移動し、現在の場所に来ました。水だけでなく雪や氷も山を削ります。称名滝下流の悪城の壁には、雪崩によってできたスプーンですくったような凹地がみられます。
今から数百万年前の地球全体の気候は、現在よりもずっと寒かったことがわかっています。このとき立山に降った雪は夏になっても解けないで、氷河を作りました。この氷河がゆっくりと滑り落ちていくときに、ものすごい力で地面を削ります。雄山の西側斜面にある、国の天然記念物「山崎カール」はこうしてできた地形の代表です。

立山の生い立ちとその原因
今から約100万年前、立山一帯はまだ高い山ではなくなだらかな丘陵地帯であったと思われます。このころ(約200万年前とするる学者もいます)から、立山はゆっくりとせり上がり始めたと考えられています。そして約80万年前頃から、急激にせり上がりました。ではなぜ大地がせり上がったのでしょうか。最新の地球科学は、プレートの運動が原因であると考えています。しかしどのプレートのどのような運動が立山をせり上げたのかは、まだはっきりとしていません。

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4.特異な景観

地獄谷
地獄谷は水蒸気爆発によって作られた爆裂火口です。地獄谷では今もあちらこちらで温泉が湧き、火山ガスが噴き出しています。このような場所には植物もほとんど生えず、岩石がむき出しで、荒涼とした風景が広がっています。仏教ともに「地獄」の考え方が日本に伝わるとこれこそ地獄の世界だ、と人々は考えるようになりました。

高原の早苗田−餓鬼の田圃
立山の弥陀ヶ原には、たくさんの美しい水溜まりがあります。昔の人々はここを、立山の地獄に堕ちた「餓鬼」が飢えをしのぐために田植えをする場所だ、と考えました。それでこの水溜まりは「餓鬼田」あるいは「餓鬼の田圃」と呼ばれるようになりました。

実りを忘れた田圃
この水溜まりの中には苗のようなものが生えていて、ちょうど田植えのあとの田圃のようです。まわりには畦のような盛り上がりさえあります。たしかに「田圃」のように見えるのですが、生えているのは稲とは別物ですから、秋になっても「米」が実るはずはありません。それで「餓鬼」は飢えに苦しみ続けるのだ、と昔の人々は考えたのです。

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