“越中富山の売薬さん”で有名な、300年の歴史と伝統を有する富山県の配置薬業。富山の売薬の振興は、180年前に富山藩が半官半民で設置した反魂丹役所(はんごんたんやくしょ)に由来するとか。近年の薬事法の改正や規制緩和などに対応する処方箋も盛り込んだ、本県の代表的産業たる「くすり」を巡る鳥瞰図、ここに完成。Key words(あいうえお順)
その理由の第一は薬の配置販売が300年の歴史と伝統を有する富山の代表的な地場産業であるからです。1690年、ある大名が江戸城中で腹痛を起こした際に、二代目富山藩主の前田正甫(まえだまさとし)公が持っていた越中の秘薬「反魂丹(はんごんたん)」を分け与えたところ、たちどころに腹痛が治まったとの逸話から、越中から諸藩への薬の販売が認められるようになりました。当時は藩を越えて商売することは厳しく規制されており、普通は他の藩の商人が商売で得た財を藩の外に持ち出すことは禁じられていました。しかし、越中の薬がよく効いて領民の命を救ったことや、売薬さんが出入りの藩に行商で仕入れた他藩の品を贈ったり情報を伝えたりしたことから、全国各地の藩とも富山の売薬さんには関所の通行を許可していました。
また、富山の売薬は、薬をあらかじめ家庭に預けておき、必要になった時にまずは薬を使ってもらい、その代金は後からいただくという「先用後利(せんようこうり)」という独特の商法をとりました。これは、立山信仰を広める配札檀那廻り(はんさつだんなまわり)(修験者が立山の御札を持って諸国の家に家内安全、五穀豊穣を祈って回る。薬草を煮つめた薬も持っていった。)に起源があるとも考えられています。この商法をもって越中の売薬さんは全国津々浦々に富山から薬を届け、医療が十分でなかった時代に日本中の人々の保健衛生の向上に貢献してきたのです。
(2) 医薬品生産の現状
売薬さんが全国に配置する医薬品(配置家庭薬)の生産は、明治時代以降は広貫堂をはじめとした株式会社の製薬企業によって発展してきました。そして、現在においても配置家庭薬は全国約600億円の生産のうち約半分(約300億円)を富山県で生産しています。また配置従事者数も、全国2万7千人のうち富山県が3196人(平成7年末)で全国一の数です。今日でも文字どおり全国の配置薬業界のトップでありリーダーであるのが富山県です。
さらに、富山県では、配置家庭薬のみならず、医師の処方箋に基づく医療用医薬品(抗生物質等)は約2千億円を、街の薬屋さんの店頭で販売される一般用医薬品(かぜ薬、胃腸薬等)は約350億円を生産しており、これらを合わせた全医薬品の生産額で富山県は全国第七位(グラフ)に位置します。(参考 配置用医薬品のシェア)
一方、医薬品の生産額・製造所数・製造従事者数は県内の人口当たりでみると他県に比べて高く、いずれも全国第一位です。また、県内の医薬品生産額約2600億円は県内全工業生産額の約7.4%で、アルミ等を含めた非鉄金属製造業の全出荷額とほぼ同規模です。これらの数字によっても、医薬品の生産が富山県の主要産業のひとつとして、いかにウエイトの高いものであるかお分かりいただけると思います。
(3) 薬業を基礎に発展した他の産業
「くすり」が富山の産業界において大きな位置づけにあるもう一つの理由は、江戸時代から売薬で蓄積された資本が富山県の近代経済の形成と工業化の基礎を築いたことです。全国を商売して得た財力をもとに有力な売薬業者は銀行業や電力業などに進出しました。例えば売薬業者によって設立され経営されてきた富山第十二国立銀行や高岡銀行等がその後統合されて現在の北陸銀行になりました。また、北陸電力の前身である富山電燈は薬種商の金岡又左衛門によって設立されました。この他にも、売薬業者は蓄えた資本を元に、繊維、製紙、出版、印刷、運輸、保険等の会社の設立に参加しました。
さらに富山の売薬業は医薬品産業のみならず医薬品の製造・販売に関連する他の産業の発展にも繋がっていきました。例えば江戸時代から富山の地場産業であった和紙業のおかげで、丈夫な楮(こうぞ) 紙が薬の包み紙に使用されてきました。また、薬の能書(のうしょ)、おまけの版画類、紙風船等には様々な印刷が行われ、富山県は印刷加工技術を発展させてきました。薬を入れる紙箱や缶・瓶の製造、さらには、木製やプラスチック製の配置箱を製造する技術は、その後「ます寿し」等のパッケージ産業、缶飲料等の容器やチューブの製造業に受け継がれていきました。
これらの薬業と薬業に関連した産業発展の歴史は県民会館分館の金岡邸(富山市新庄町)や県内の各薬業資料展示館(富山市、滑川市、上市町等)に展示されている資料で知ることができます。
明治時代に入り、売薬業は新たに定められた「売薬取締規則」に基づいて明治4年から県の官許となり、富山県は売薬行商人に売薬鑑札を発行して身分を保証しました。一方、明治政府は西洋医学重視の立場から、国の歳入増加策として明治15年度から和漢薬を扱う売薬に高額の印紙税を賦課しました。これに対し、業界は全国各地で反対運動を興す一方で、自らも西洋薬学の知識を身につけるために薬学校の設立を働きかけるなど、和漢薬を主体としてきた従来からのやり方を改善していきました。こうして明治27年に富山市の補助と業界の寄付金によって「共立富山薬学校」が設立され、その後、「市立薬業学校」、「県立薬学専門学校」、「官立薬学専門学校」、「国立富山大学薬学部」を経て、現在の「国立富山医科薬科大学」となったのです。
明治から大正期にかけて県内製薬会社が発展し海外へも進出していく一方で、原料薬の国内生産が検討され、大正5年から薬草の実験栽培が試みられました。県は薬草園を設置し、県衛生課、県農林課、県林務課、県農事試験場、薬剤師会、薬学専門学校等が共同で薬草の研究と栽培・供給を行いました。薬草の生産は県内各地で試みられ、需要の少ない薬草の品種などは県内生産量で供給をまかない他県にも提供しましたが、需要の多い品種では信州、飛騨や関西から供給を受け、または中国等からの輸入に頼る必要がありました。県内で生産可能な薬用植物の栽培適応性試験や栽培方法の確立の研究は昭和42年に上市町に設立された「富山県薬草園」(昭和58年に富山県薬用植物指導センターに改称)へと受け継がれています。
(2)戦後の薬業再出発の支援
昭和23年の薬事法制定と厚生省薬務局の設置に先立ち、昭和21年には富山県庁内に薬務課が設置され、薬事行政を専門に担当することになりました。当時、県内薬業の振興施設の整備が県政の課題であったことから、昭和27年に策定された「富山県勢総合開発計画」の中には薬の製造、配置販売と輸出の振興を基本とした「家庭薬業計画」が盛り込まれました。そして、昭和27年には県立の薬事研究所が、昭和28年には薬業会館が建設されました。
その後も、昭和32年に策定された「県総合開発修正4カ年計画」においては、研究、生産、販売、輸出、教育、金融の面からの薬業振興計画がまとめられました。さらに、昭和36年に策定された「第二次県勢総合計画」での薬業計画においては、昭和36年度からの国民皆保険制度の創設を踏まえ、新たな時代に対応するよう、販路拡大、配置員の確保、家庭薬の研究促進を進めることを柱とした薬業振興対策を示しました。これらの計画に基づき、富山県では昭和33年には県薬事審議会の設置、昭和35年には薬業振興資金の貸付制度の創設、昭和38年には薬業講習所の設立等、他県にない独自の薬業振興施策を行ってきました。
(3)薬業振興課の役割
昭和45年10月には薬務課から薬業振興課が分離独立し、振興係と指導係が設けられました。その背景には、生産される医薬品の品質確保のために新たに示されたGMP(医薬品の製造管理・品質管理基準)に県内製薬企業が対応するために、経営面での相談と資金調達について指導することが必要になったことがあります。また、配置販売における販路の拡大と配置員の確保、家庭薬の改良研究の推進等が薬業県富山を支えていく上で大変重要な課題であったことによります。県としてもこれらの状況に対応して業界を指導・育成するために、独立した組織として薬業振興課を設け、積極的な薬業振興施策を充実していくこととしたものです。
これ以降、薬業振興課は、配置薬をはじめとした県内医薬品製造業と配置販売業の振興並びに近代化を進めるために、薬業振興資金の融資、配置従事者等の研修、家庭薬等の開発研究の推進等の各種施策を進めていきました。また、平成4年には「富山県バイオ推進計画」を策定し、バイオテクノロジーを応用した医薬品の開発研究の促進、バイオ技術の産業実用化の推進等を進めているところです。こうした役割を担いながら、薬業振興課は平成7年10月に25周年を迎えるに至りました。
そのうえ、社会制度全般にわたって規制緩和が推進される中にあって、医薬品についても再販売価格維持制度の見直し等により販売競争が激化してきました。さらに医薬品は生命関連商品であるからコンビニエンスストアで無資格者によって説明なしに販売すべきでないとの議論から、逆に、医薬品を取り扱う者は消費者に対して医薬品情報の提供など専門的かつきめ細かい対応が求められるようになってきました。
このため、配置販売業では一人帳主(顧客台帳である懸場帳を持って自分一人で得意先を回商している個人業者)のような個人的な経営から脱して法人化を進め、懸場帳を管理する電子機器や携帯電話、FAX等のOA機器の導入によって経営を近代化し、消費者サービスを向上することが急務とされています。
一方、古くからの配置薬を製造している製薬企業では、薬事法改正による新たな医薬品製造管理・品質管理基準(新GMP)を遵守するため、工場設備の改修や新工場の建設の設備投資に迫られています。さらに、製造物責任法が施行され、メーカーの立場から消費者からの苦情や問い合わせに充分な対応が求められています。また、国民一人一人が自分の健康は自分で守るとするセルフメディケーションが進むと、消費者ニーズに対応した新たな製品を開発することも必要とされています。これらに対応していくことによって、現在は全医薬品生産(約6兆円)の1%を占めている配置家庭薬は今後のシェア拡大が期待されています。
(2) 配置薬業近代化への取り組み
こうした状況を踏まえ、配置薬の製造業と配置販売業は昨年9月18日に中小企業近代化促進法の業種指定を受け、国(中小企業庁、厚生省)が策定する近代化計画に則って全国の配置薬業界が歩調を合わせて近代化事業に取り組むこととなりました。
富山県の配置薬業界を振興してきた薬業振興課としては、国のこうした動きに先駆け、昨年1月に業界代表者と有識者からなる配置薬業近代化委員会を組織し、1年間の討議を踏まえて平成8年2月に「富山県配置薬業近代化促進プラン」をまとめました。
この「促進プラン」は本県の配置薬業の現状と問題点を整理し、業界が進むべき近代化の方向を示すとともに、県等の行政機関に対し業界の近代化を支援し具体的な対応の動きを促進するための振興施策を提言したものです。
具体的には、配置薬は家庭の常備薬であり小包装のものが多いこと、配置販売は配置員が直接家庭を訪問して消費者に先用後利により販売する方式であるという特徴を踏まえ、
また、
(3) 県の振興施策の視点
県としては、委員会から提言された内容について、業界支援策として実施可能なものや優先的に取り組むべきものから事業化することとしました。そして、従来から取り組んできた薬業振興策を拡充する(例えば薬業振興資金の貸付限度額の引き上げと貸付枠の拡大、共同研究助成テーマの拡大等)とともに、新たに平成8年度から配置薬業推進事業として、近代化マニュアル作成、合併等促進補助、近代化設備資金利子補給、共同化モデル事業補助等を予算化(3,874万円)しました。これらの振興施策は、近代化に積極的に取り組もうとしている業界団体内のグループの自主的活動を支援することに主眼をおいています。また、これらの事業を県独自の施策として実施することにより、県内の他の業者のみならず全国に対しても富山県の業界が進んで近代化のモデルを示していくことを狙っています。
富山県の薬業300年の歴史において、富山藩、富山県は配置薬業界の指導と育成に積極的な役割を果たしてきました。そして、今日も富山県は配置薬業界にあって全国をリードする立場にあることから、富山県薬業振興課の独自の支援策は単に県内業界の振興にとどまらず全国の配置薬業界の近代化を推進していくことに繋がるものと考えています。配置薬業界の側では、消費者に対するサービスの向上と21世紀に向けた配置薬業界の発展を図ることを目指して、配置薬製造業と配置販売業が一体となって国の近代化計画に基づいた業界近代化への取り組みが始められようとしています。こうした業界側の動きに呼応して、県としてはこれまで歩んできた歴史の流れと有識者・関係者の意見を踏まえながら、業界が社会環境の変化に対応して将来進むべき方向を絶えず検証し、体系だった業界振興施策を総合的に計画し実施していくことが重要となっています。