豊かさ」日本一とされる富山県。この「豊かさ」はどこから来たのか。過去を照らし出し、現在の「豊かさ」を築いたその軌跡を辿ってみれば、見えてきたのは「日本の縮図」としての富山県とそのパイオニア性。 本県の現在を評価し、過去を照射し、そして未来を展望する連載第二弾。 語るは「富山県、その過去」。第1回を読む,第3回を読む
本県には、大小300余の河川があり、毎年洪水に悩まされてきました。明治16年に富山県が石川県から分離独立したのも、治水予算を第一とする本県と道路・官公署の建設を優先する石川県との対立が背景にあるわけです。明治24年、T暴れ川Uの異名をとる常願寺川の大水害後にやってきたお雇い外国人技師であるヨハネス・デ・レーケをして、「これは川ではない。滝だ。」と言わしめた逸話は皆さんもご存知のことでしょう(県公文書館において、5月9日から6月7日までミニ企画展として催された「治水問題と富山県の誕生」は、こうした本県の歴史を学ぶ上で面白いものでした。県内を巡回して、一人でも多くの県民に見てもらえるようにすればと思います)。
そして、こうした長年にわたる水との闘いと、三方を山に、一方を海に囲まれているという閉鎖的地形によって、私は次のような県民性というか県民の行動様式が培われ、現在にも引き継がれてきたのではないかと考えています。
まずは、勤勉貯蓄です。災難に備え、黙々と働き、貯えるということ。平成6年の平均貯蓄率は30.7%と、福井県に次ぎ全国第2位です(全国平均17.8%)。
次に、土地や家に対する強い愛着です。自分の先祖が大切にしてきた土地や家を守り、次の世代に伝えること。血縁、地縁の強さは本県の特色です。
最後に、外に出て稼ぎ、その富を持ち帰るという交流パターン。江戸時代に端を発した越中売薬はまさにその典型です。
前回紹介した本県の「豊かさ」日本一は、まさにこうした精神風土を基に、後述する水力発電の開発などを契機として築かれてきたわけです。
もっとも、本県では、それが社会の隅々にまで貫徹され、あまりにも諸々の事象を規定し過ぎている観があり、
(注)正確には、異質なものへの憧れ、好奇心は十分にあるものの、それを受け入れることへの心配、警戒心が先に立つということでしょうか。こうした姿勢の背景には、血縁、地縁といったいわゆる宿命縁の維持に生活のエネルギーの大半を費消してしまうことにより、選択縁へのエネルギーが残されていないということが考えられます。
さて、富山県にとってT暴れ川Uと闘う治水は死活問題であったわけですが、本県の凄さは、「災いを転じて福となす」といったいわゆる逆転の発想により、落差を伴う豊富な水量を逆に利用して、積極的に水力発電を行い、安い電力料金で企業の誘致などを進めてきたところにあります。
江戸時代以降明治まで、富山県は全国で最も貧しい県の一つだったわけですが(明治後半から大正にかけて、北海道への移民数は全国一でした)、こうした水力発電の開発と電力料金の思い切った低廉化によって、数多くの企業を誘致し、何と昭和17年には、職工5人以上の工場の生産額として全国第9位を誇るに到ったのです(東京、大阪、神奈川、兵庫、福岡、愛知、北海道、静岡に次ぐ順位。因みに、平成5年の本県の製造品出荷額等は全国第25位)。
こうした積極進取の気性は、戦後、太平洋ベルト地帯の形成が進む中で、高度経済成長へ乗り遅れないための起死回生策としてとられた新産業都市の建設にも受け継がれ、その後のテクノポリスの建設や頭脳立地計画の推進と相俟って、本県は日本海側屈指の工業集積県としての現在の地位を確保するに到っています。
(2)日本の縮図
こうした歴史の中で、富山県の「豊かさ」が築かれてきました。清らかな水と緑など美しい自然に恵まれ、県民は勤勉で教育水準が高く、伝統文化が根づき、製造業を中心に近代産業が発達している。こうした富山県の特色を挙げてみると、まさに世界の中の日本の特色そのものです。
逆に言えば、日本の特色は、そのまま富山県に最も良く当てはまるのではないか、まさに「日本の縮図」だということです。
さらに、本県出身の宮口とし廸教授(早稲田大)からは、こうした歴史プロセスそのものも、「日本の縮図」であるとの指摘がなされています。興味深いので紹介しましょう。
宮口説によると、我が国の製造業労働者の質の高さは、自分の土地を守り、集団作業の中で、毎年同じ作業を繰り返す水田農業の中で養われてきたものであり、近代工業生成過程において、一気にそれが第2次産業に優秀な労働力となって析出したことが、我が国の発展の原動力となった。そして富山県はその典型であるというのです。
そして、水田農業(因みに、水田率(平成6年)や兼業農家比率(平成6年度)は、本県全国第1位)や近代工業(因みに、人口1万人当たり製造業従事者数(平成5年)は、本県全国第3位)は、従事者が、限られた付き合いの中で、同じパターンを繰り返しつつ熟練していくもの。その結果、単純で固まった関係の中に日常が作られ、未知の世界を含めた多様性を欠くことにつながっているとし、そこに富山県が若者にいま一つ人気のない原因があるとしています。ナ・ル・ホ・ド。
このように、色々な面で「日本の縮図」である富山県、改めてその特性を整理してみると、表-1のようになりました。
まず、表-2(戦後の地方行政の変化)をご覧ください。
戦後、国を挙げて高度経済成長に邁進した時代の地方行政は、まさに「地域開発」の歴史でした。地方は、地域間格差の是正を目指した産業振興を主眼とした基盤整備と、その歪みとして発生した公害、環境汚染に対応するための(消極的意味での)生活環境の整備を、ハードを中心に、知恵も金も国に依存した形で行ってきたのです。
その後、オイルショックを契機とした高度成長から安定成長への移行、国家財政の逼迫、人々の価値観の多様化といった時代の変化の中で、高度経済成長の下で概ね達成された各行政分野でのナショナル・ミニマムを背景として、地方行政の役割も変わってきました。いわゆる「地域開発」から「地域づくり」への転換です。
そこでは、地域の特性に応じた総合的な暮らしやすさの実現が目標となりました。産業基盤の整備、(環境汚染を防ぐといった消極的意味での)生活環境の整備の他に、保健・医療・福祉サービスの充実、多様な文化・スポーツの振興、地域のイメージアップといった各種施策が、function(機能)に加えてamenity(快適さ)にも配慮したソフト戦略を伴った形で、地方自らの頭と手で産み出されるようになってきたわけです。
(2)吉田県政、中田県政、そして中沖県政
こうした戦後の地方行政の変化の中で、それぞれの時代、その典型例となってきたのも、また富山県政でした。地方行政の歴史においても、本県はやはり「日本の縮図」なのです。
繊維、電気機器の分野を始めとして技術革新が進み、工場立地の適地として太平洋ベルト地帯への工業集積が進んでいく中、本県が、その起死回生策として、富山新港を建設し、これをめぐる臨海工場地帯を造成するなどの新産業都市計画を打ち出したのが、昭和31年から44年の吉田県政。
高度成長の歪みが如実に現れ、イタイイタイ病を始めとして、「公害デパート」と揶揄された本県で、公害防止、自然保護など生活環境の整備に取り組んだのが、昭和44年から55年の中田県政。
まさに、これらは「地域開発」の歴史そのものでした。
そして、昭和55年に登場したのが中沖県政。
そこでは、「地域開発」から「地域づくり」へといった我が国の地方行政の流れをまさに先取りする取り組みが次々と展開されていきました。
新富山県民総合計画(平成3年度〜12年度)
日本の縮図とも言うべき富山県のこれからの展開が、日本の進路を占う一面をももっている。‥‥‥この豊かさの基礎の上に、積極進取の気風をもつ県民が、みんなで努力を積み重ねれば、日本の発展をリードし、かつ、日本の地域づくりのパイオニアとなる大きな可能性をもっている。
もっとも、パイオニアのこうした為せる技は、近年、他の地方自治体の真似(学)ぶところとなり、その先駆性が徐々に薄れつつあることも事実です。
そこで、新たな時代となるであろう来たるべき21世紀においてもパイオニアであり続けるためには、先見性のある明確なビジョンを持ち、そしてこれを着実に実行していくことが益々重要となってくるのです。
そこで次回は、「富山県、その未来」と題して、幾つかの思いを語ってみたいと考えています。